今国会で皇室典範の問題が大いに議論されている最中である!
そんな中で、昭和22年(1947年)に皇室を離脱した11家の旧宮家が注目を集めているが、この問題はもっと大局的な観点から国民みんなが一緒に考えるべき問題なのである!
この問題の始まりは、江戸時代に生まれた伏見宮邦家親王(1802年〜1872年)にあるといえる!
伏見宮邦家親王は、誠に子宝に恵まれていらした。何と男子17人、女子15人の合計32人の子供をもうけられたのだ!
これが、皇族宮家新設ラッシュのそもそもの原因となったのである!
明治新政府において、実際にこの伏見宮系から新しい宮家をたくさん作り(門跡の還俗を含む)、皇族を中心とした国家の骨格をデザインした中心人物が、維新の十傑の1人でもある公家出身の岩倉具視(いわくら ともみ)であった!
さらに、これを明治の中期に「皇室のルール(制度)」として盤石な形に法制化したのが、伊藤博文とそのブレーンである井上毅(いのうえ こわし)なのだ。
彼らが何を狙って新しい宮家を増やし、政治を動かしたのか。そのダイナミズムを2人の主導者の役割から考えてみよう!
繰り返すが、宮家を増やした「創始者」は岩倉具視である。
幕末から明治初期にかけて、伏見宮家から多くの皇族を「還俗(げんぞく:寺から出して一般社会に戻すこと)」させ、新しい宮家を立ち上げさせた仕掛け人が岩倉具視なのである。
岩倉の狙いは「皇室の権威を最大化し、維新政府を安定させること」にあった!
岩倉の当時の危機感とは、当時の日本の明治政府は徳川幕府を倒したばかりで、地方の武士や国民にとって「明治新政府」の権威はまだ非常に弱いもので、いつ内乱が起きてもおかしくない状態であったことだ。
そのために岩倉は、「新国家のリーダーたち(軍の総帥や行政の長)を皇族で固め、誰も反抗できない絶対的な権威を作ろう」と考えたのである。ところが、現実には圧倒的に皇族の人数が足らないという実状があった。
そこで、江戸時代に「お寺(門跡)」に入っていた伏見宮邦家親王の息子たち(彰仁親王、能久親王など)を、明治政府の命令で一斉に呼び戻して還俗させた。彼らに「小松宮」や「北白川宮」などの新しい宮家を与え、陸軍や海軍のシンボル(総帥)として配置したのである。
現実に彼ら新宮家の皇族は、戊辰戦争や西南戦争で新政府軍の総大将を務めるなど、「天皇の軍隊」という絶対的権威を国民に見せつけるための政治的カードとして大いに活用されたのであった!
新しい宮家を永続させる「法」を作った男は、初代総理大臣である伊藤博文と強力なタッグを組んだ井上毅である。
岩倉が作った「たくさんの宮家」という現実を、国家の制度(法律)として公認し、さらに強力に推し進めたのが、初代首相の伊藤博文と、その右腕として「明治憲法」や「旧皇室典範」を起草した法律家の井上毅なのだ。
しかし、彼らが皇室典範を制定する際には、政府内で激しい対立も起きた。
三条実美(当時の太政大臣・右大臣)の意見は、「皇族がこんなに増えたら、国から支払うお金(皇族費)がかさむし、品格の維持も難しくなる。何代か経ったら一般人に戻す(臣籍降下)ルールを作るべきだ」というものであった。
しかし、 井上毅の反論は、「多少のお金がかかっても、皇族をたくさん(永続的に)維持することこそが、将来の皇室の安泰につながる。皇族の数を絞ってはならない」というものであった。
井上毅は、もし天皇家に後継ぎがいなくなったときの備え(男系男子のストック)を重要視し、「永世皇族制」(一度皇族になった家系は、何代経っても自動的に一般人に戻ることはないとするルール)を旧皇室典範に盛り込むことを強く主張したのだ。
この井上の主張が通り、明治に新設されたたくさんの宮家は「一代限りの特別処置」ではなく、「永久に続く宮家」として法的に確定することになったのである。
この明治政府の二段階の政治的アプローチがあったからこそ、昭和22年まで「11宮家51名」という大所帯の旧宮家が存在し続けることになったのだ!
皇室典範の問題とは、神話は神話として尊重しつつも本来はこのような経緯も踏まえ、今を生きる現代の国民みんなが考えるべき問題であることを、政治家たちはもっとシッカリと肝に銘じるべきなのである。
『皇室典範―明治の起草の攻防から現代の皇位継承問題まで』 はじめに|web中公新書







