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ryuchell(りゅうちぇる)さんや三浦春馬さんを想う時に思い出す人!

昨日7月12日、タレントのryuchell(りゅうちぇる)さん27歳が、突然自死により亡くなったとのニュースがあった。さらには、何と5歳になる息子さんの誕生日の翌日のことであったという悲しい事実まで知ったのである。誠に切ない!

そして直ぐに頭に浮かんで来たのが、3年前の2020年7月18日に30歳で亡くなった、三浦春馬さんのことである。

そう言えば、あの当時も今年と同じく「令和2年7月の豪雨」と呼ばれ、九州などで水害による被害が大きく犠牲者も多くあった年でもあった。

個人的には、このお二人には相共通するイメージを抱いていた。それは一言で言うと、「純粋性」ということである。

それも、子ども心にも通じる一途なホンマに曇りのない美しいキラキラした「純粋性」であった!

故に、何の面識もある訳ではないのだが、ただ人生の先輩の一視聴者として愛おしい思いを持って、このお二人を画面越しに拝見していたのである。

さらには、このキラキラした「純粋性」が年月を経て、どのような花を咲かせてくれるのかということは、想像するだけでもワクワクする楽しい思いを抱いていたのである。

訃報に接しての我が心の切ない思いは、何とモッタイナイことを!という気持ちがまずは一番に強いのである。

そんなこともあって、本当にご本人たちに何が起きたのかは知る由もないことではあるが、切なき思いの我が胸にふと同じく浮かんで来るのは、今は昔の新入社員の時代に出会った、昭和の時代に「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門さんの言葉であった。

昭和の時代に「電力の鬼」と呼ばれた、松永安左エ門とは!

1875年(明治8年)に生まれ、96歳で亡くなられる1971年(昭和46年)まで、明治の後半から戦後の大混乱期の昭和を含めて、長く日本の電力業界において活躍した大実業家である。

その松永安左エ門さんが仰った言葉に、『実業人が実業人として完成する為には、三つの段階を通らぬとダメだ。第一は「長い闘病生活」、第二は「長い浪人生活」、第三は「長い投獄生活」である。このうちの一つくらいは通らないと、実業人のはしくれにもならない!』という新入社員の時代に出会い、以後忘れることが出来なくなった言葉である。

実に強烈な言葉である、そして「実業人」の箇所は「政治家」でも「芸能人」でも何であれすべてが当てはまるようだと、当時我が胆に銘じたのである。

この「長い闘病生活」「長い浪人生活」「長い投獄生活」の3つの共通点は、「自分という人間と、自らが徹底的に向き合う時間を長く持つこと」ということに尽きる!

人の人生とは、その時々の自分の心と向き合うその深さにより、大いに変化して行くものなのである!

今や世界のスーパースターである大谷翔平選手も尊敬している、あの中村天風先生が仰る、まさに「こころ一つの置き所」である!

ちょっとしたことで叱られたり失敗をして考えるのは、「反省」である。重度の失敗をして、ひどく落ち込むような結果の末に辿り着くのが「猛省」である。

さらに、そういう事後的な発想の態度ではなく、自らの意志をもって自分の心と対話し、事前にあっても常日頃に自分の心を整えておく態度が、「内省」やさらにもっと深い「内観」と言われるものである。

松永安左エ門の言葉は、この「内省」やさらに深い「内観」に少しでも辿り着くように日々修行せよという「大いなる激励」であるように思えるのである!

松永安左エ門さんと言えば、その先見性は留まることを知らずで、1956年(昭和31年)には日本の政・財・学・官界のトップで構成する「産業計画会議」を自らが主催し、16のレコメンデーション(勧告)を発表して、議員や大臣、関係者に大いに働きかけたのである。

何と1956年(昭和31年)にすでに、「専売公社の廃止」、「国鉄の民営化」、「高速道路の整備」などを掲げていた、日本の近代化を推し進めるプロジェクトであって、その大部分が後世には実現するのである。

あわせて、「電力設備の近代化」と「電源開発」も推し進めた。水力に頼っていた電源が「火力へシフト」すると予測し、燃料も「石炭から石油」へと設備を拡充していった。さらに、「原子力」へも目を向け、1966年(昭和41年)には研究所内に事務局を置く「フェルミ炉委員会」を発足。技術者などを次々とアメリカへ派遣した。日本の原子力基盤を築いた多くは、このときの研修生である。

その後も、1969年(昭和44年)には、電気事業研究の国際的協力と情報交換を目的とするIERE(電気事業研究国際協力機構)を発足させた。日本の将来にわたる電気事業の基盤づくりすべてが安左エ門の手によって築かれていったのである。

松永安左エ門 – Wikipedia

九州電力 「電力の鬼」と呼ばれた不屈の事業家 (kyuden.co.jp)

松永安左エ門『実業人が実業人として完成する為には、三つの段階を通らぬとダメだ。第一は長い闘病生活、第二は長い浪人生活、第三は長い投獄生活である。このうちの一つくらいは通らないと、実業人のはしくれにもならない。』 | IQ. (a-inquiry.com)

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佳子さまの「ひとり暮らし」問題の記事に思う!

皇室の佳子さまの、矛盾だらけの「ひとり暮らし」問題、という記事をネットで目にした。
税金の使われ方を、大いに気にしているらしい?ようなことが書かれていた。

正しい税金の使われ方を広く考えるという意味では、それもまんざら間違いではないとは思う。

しかし、有り得ないことではあるが、もし佳子さまが街の安いマンションでお暮しになるとどうなるか?
それこそ大勢の人々が、警備の問題やら色々なことに巻き込まれ、現状よりもずっとずっと大変なお金がかかるし手間もかかることは目に見える話ではなかろうか!

「ひとり暮らし」的なことをチョットしただけで、これほど目くじら立ててとやかく言われる佳子さまを思うと、皇室以外の日本人はつくづく皇室に生まれなくて「ノブレス・オブリージュ」を背負わなくてよかったという安堵感をイメージすれば、それでよい話なのではなかろうか?

余談ながら、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)とは、貴族や上流階級などの財産・権力・地位を持つ者は、それ相応の社会的責任や義務を負うという欧米社会に浸透した道徳観のこと。フランス語のnoblesse(貴族)とobliger(義務を負わせる)を合わせ「高貴たるものの義務」を意味する言葉である。英語では「noble obligation(ノーブル・オブリゲーション)」という、とのことである。

なお、ホンマにまったくの個人的な感想であるが、英国初の女性宰相であったサッチャー首相の誕生の陰には、同世代の英国男性貴族たちが「ノブレス・オブリージュ」の為に、第二次世界大戦の最前線においてかなり戦死したことも大いに影響しているように思うのである。

それに比べると、一部の人たちを除くと、当時の大日本帝国の多くの高級軍人たちは、このノブレス・オブリージュが欠如していた。いや、もともとノブレス・オブリージュという言葉自体も知らず、日本古来の武士道も忘れ去っていただけなのかも知れない。

閑話休題、税金の話に戻る。ホンマに税金の使われ方をとやかく言うのであれば、何よりも今自分自身が住んでいる街の税金が、ホンマにまともに使われているのかどうか?と気にする方がもっと適切なように思えてならない。まずは、自分の足元のことを確認しておくことがもっと大事ではないだろうか?

そんな風に思う我が身ではあるが、恥ずかしながら今まで住んでいる街の税金の使われ方をチェックしたことは一度もない!
おまけに、多くの日本国民もそんなもんやろなあと勝手に想像している始末である。
つまり今の時代、それほど無茶苦茶な税金の使い方はしないであろうと、性善説に基づいた安易な見方をずっと継続している訳である。

さらにもっと正直に言えば、少なくとも税金の90%前後はまともに使われており、残りの10%前後には問題はあるかも知れない?とは言え、世の中いろいろと個別の事情もあるやろう、という多くの【大人の日本人】が抱くような気持ちが強いのである。

今までズットそのように割り切っては来たが、税金の使われかたについてのモヤモヤ感が全く無いワケでもない!
政府が大いに旗を振るITを利用した【DX】を早急に各市町村に導入し、はやりの一般市民による【第三者委員会】が、各自治体の税金の使われ方を【リアルタイム】での24時間体制で【監視】できるのであれば、このモヤモヤ感も少しは晴れるようにも思えるのである!

佳子さま 矛盾だらけの「ひとり暮らし」問題 宮内庁幹部勇退間近で「うやむや」の可能性(1/3)〈dot.〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)

予算 – 宮内庁 (kunaicho.go.jp)

発信強化目指し「広報室」=皇室の「正しい情報を」―SNS導入も検討・宮内庁 | 時事通信ニュース (jiji.com)

ノブレス・オブリージュとは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD

日本の憲法を単語の数で比べてみると!

令和の奈良弁に超訳した「万葉集」!

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ケインズとヒトラー!

英国の大経済学者ケインズは1883年に生まれ、1946年に62歳で逝去。

ケインズはケンブリッジ大学で数学を専攻し、1906年英国のインド省の官僚として社会人デビューするが、2年で官僚を辞めケンブリッジ大学に戻り研究者への道を選んだ。しかし、1915年には英国大蔵省に移り、それから1919年にドイツへの巨額賠償金に反対して大蔵省の職を辞すまでの4年間ばかりは再び役人生活を送った。

一方、ドイツの政治家ヒトラーはケインズより6歳若く1889年に生まれ、1945年に56歳で連合国側のソ連に首都ベルリンを陥落され観念し自害した。
余談ながら、「Hitlerヒトラー」の姓名の語源は、「Hiedlerヒードラー」で「日雇い農夫」「小農」を語源とする姓名であり、それほど珍しい姓名でもなかったとされている。「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓は東方植民したボヘミアドイツ人、およびチェコ人・スロバキア人などに見られるそうである。

話は時代を遡り1919年の話となるが、ドイツが第1次世界大戦で敗れ、すったもんだの末にバカなほど高額な賠償金を負担させられた結果ドイツ経済は行き詰まる。それが世界経済に波及して、1929年には世界大恐慌が起きる。そこで待ってましたとばかりに、ヒトラーが登場して来るのである!

そして1933年以降ヒトラーは、1936年に発表の【ケインズ理論】をまるで先取りした経済政策により、600万人のドイツ失業者をたった3年で100万人までに減らしたのである。また大企業と高額所得者には増税を、その他には減税を実施。それ故に、多くの国民から絶大な支持を得たのである。その当時には、後にヒトラーと激しく敵対する英国のあのチャーチルでさへ賛辞を送っているほどだ。

思えばむしろケインズの方がヒトラーを参考に、【ケインズ理論】を書いていたのかも知れない!

第1次世界大戦後のドイツの賠償金に関しては、当時英国の大蔵省A課がドイツに課す賠償額策定の任に当たっていた。1918年には責任者として、ケインズ自身が就任した。A課は11月に「ドイツの支払い能力は高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」になるという見通しの報告書を作成し、閣議に提出した。しかし、政府は大戦前のドイツ貯蓄を基準として賠償請求額は何と240億ポンドにすべきであると主張したのである。

1914年には【1ドル=4.2マルク】の公定レートであったが、戦争中を通じて次第にマルクが下落。1918年11月時点には【1ドル=約7.5マルク】。当時【1ポンド=約5ドル】からすると、【1ポンド=約38マルク】。【40億ポンド=約1520億マルク】、【20億ポンド=約760億マルク】となる。
しかし、最終的にドイツの賠償金額は、総額は【1320億マルク(純金47,256トン相当)】という、【現在の日本の円に換算すると200兆円】を優に上回るイメージであり、1913年当時のドイツ国民総所得の2.5倍という莫大なものとなり、ドイツはこの金額を向こう30年間にわたって分割払い、しかも外貨で支払うことになった。

当然ドイツ国民としては、「あまりにもヒドイではないか!」とみんな頭に来たはずである!

ドイツへの巨額賠償金に対しケインズは反対したが、1919年10月の【ベルサイユ条約】で決定された。その結果、一方的に貿易における勝ち逃げをした米国による【金の不胎化】や賠償金の【マルク払いを禁じた】ヤング案により、ドイツでは歴史に残る【ハイパーインフレ】が発生するのである。この歴史的なインフレが、米国に巨額の戦債の不良債権化をもたらし、1929年の米国株式市場の暴落、そして【世界恐慌】へと繋がって行く。さらには、ヒトラーによる【ナチスドイツ】が台頭する引き金となったのである!

1936年、ケインズは彼の代表作となる『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表し、激しい経済学論争を呼び起こしたが、この書に端を発する【ケインズ理論】はまもなくして【ケインズ経済学】として世界の経済学の主流となった。

『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年 )では、【不完全雇用】のもとでも均衡は成立し得るとし、また【完全雇用】を与えるための理論として、【反セイの法則】を打ち立てて、「産出高は消費と投資とからなる」とする【有効需要の原理】を基礎として、有効需要の不足に基づく非自発的な失業の原因を明らかにした。
【有効需要】は、市場メカニズムに任せた場合には不足することがある。しかし、ケインズは、投資の増加が所得の増加量を決定するという【乗数理論】に基づいて、【減税・公共投資】などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、【有効需要】は回復することができるとした。生産者が価格を変えずに、供給量を総需要に応じて調整する。ケインズは【総需要】を増大させる方法として、財政政策、特に【財政支出政策】を重視した!

思えば2008年のリーマンショックによる世界金融危機以降、マスマス日本企業が保有する現預金は増大傾向にあり、2016年度でも現預金額は約 211兆円にも上った。

この金額はまさに第一次大戦後のあの巨額なドイツの賠償金額に、匹敵する金額の現預金額ではないか!

ケインズ理論を踏まえると、「失われた20年や30年」と言われる日本経済の低迷は、この預金を200兆円を抱えたまま何らホンキで投資してこなかった、「ヒトやモノやコト」への供給不足という至極シンプルな理由と思えて来るのである!

しかし、まぁまたサラリーマンCEOが要らぬことをして失敗しゼニを失くすよりは、何もしないでカネを抱いてじっとしている方がまだマシか、という日本の多くの真面目なCEOたちの思いも分かる気はするのだ(笑)

第一次世界大戦の賠償 – Wikipedia

ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション – Wikipedia

ジョン・メイナード・ケインズ – Wikipedia

アドルフ・ヒトラー – Wikipedia

第1次世界大戦も「マネーの戦い」だった 巨額の戦費をどのようにして賄ったのか? | 新潮社「Foresight」 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

ヒトラーやスターリンが互いを嘲笑し合う映画「独裁者たちのとき」!

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社会のためにある「QRコード」開発者に万歳!

2023年3月、日本学士院が授与する第113回日本学士院賞および【恩賜賞】をデンソーウェーブ主席技師の原昌宏さんが受賞された!
受賞の理由は、「QRコードの原理的発明とその後の発展のためのさまざまな技術的発明と開発を長年にわたり行い、世界的普及のための標準化にも貢献」したことである。

【恩賜賞】は学術研究が対象で、ノーベル賞を受賞した山中伸弥さんなど、日本を代表する研究者がこれまで受賞してきた。企業の実用的研究で受賞するのは極めて珍しいことである!
原昌宏さんが仰るには、「はじめは冗談か?と思ったが、特許が学術論文と同じように評価されたと聞き、ホントに嬉しかった!」とのことである。

なお、第113回授賞式は先月6月12日天皇皇后両陛下ご臨席のもと挙行された。

QRコードの開発は、1994年「バーコードの読み取りが面倒だ!」という製造現場の声をきっかけにスタートした。
英数文字などが【20文字】程度しか記録できないバーコードでは、扱える情報量が極めて少なく、汚れにも弱いことなどに製造現場では困っていたのだ!

それが、QRコードならば、英数文字などが【7000文字】ほどの大量の情報が扱えるようになったのである!
現在QRコードは、ビジネス、暮らし、医療など、ホントに幅広いシーンで利用されている。

世界各地で広がっているキャッシュレス決済のキーテクノロジーでもあるのだ!

スマホをかざすだけで知りたい情報やクーポンを受け取ることができて、航空券を買うために並ばなくてもよく、現金がなくてもキャッシュレス決済で買い物ができる。
QRコードの普及によりさまざまなことが“あたり前”にできる時代になった!
QRコードは、役立つことを楽しく楽にしてくれるたのである!

なお、『多くの情報を読み取ることができ、読み取りやすく、世界中の人に自由に使ってもらいたい。』という願いから、開発したQRコードは、最初から特許を無償で解放したのだ!

そうなのである、これだけ世界に普及してもQRコードの特許料収入はゼロなのだ!

QRコード開発|テクノロジー|デンソーウェーブ (denso-wave.com)

QRコード開発25周年!開発エピソードや25年間の軌跡を紹介した特設サイトをオープン|お知らせ|DENSOWAVE (denso-wave.com)

第113回日本学士院賞・恩賜賞をデンソーウェーブ主席技師 原昌宏が受賞 | ニュースルーム | ニュース | DENSO – 株式会社デンソー / Crafting the Core /

日本人の美意識とは!

ウォシュレットの世界制覇はあるか?

21世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)!

獣害研究家・雅(まさ)ねえ 万歳!

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拉致問題解決に向けても「キューポラのある街」を見ましょう!

「キューポラのある街」、主人公のジュン役を演じた吉永小百合さんが、当時史上最年少の17歳で第13回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、大きく飛躍するきっかけになった作品である!

1962年(昭和37年)に公開され、監督は浦山桐郎さんであった。

なお、原作者の早船ちよさんは、この作品で同じ年昭和37年の日本児童文学者協会賞を受賞された。

<参考1>:『キューポラとは、屋根に取り付けられている、小さな屋根の構造体のこと。形状は半球や円すい、四角すいなど様々で、屋根裏の換気をするためや、飾りとして付けられている。イタリア語の“クーポラ (cupola) ”が語源とされており、元々は大きさ、設置場所にかかわらず、単純に「半球形の屋根」の意味であった。イタリアにある大きな教会の多くは、ドーム頂上部に突出したクーポラを持っていて、教会自体をクーポラと呼ぶ。日本では、鋳物工場などの屋根から突出していた、溶銑炉の排煙筒をキューポラと呼んだものである。』

鋳物工場のキューポラが立ち並ぶ埼玉・川口。町工場に勤務する鋳物職人・石黒辰五郎の長女で中学3年生の石黒ジュンは、高校進学を目指していた。

そんな中、仕事中の大怪我の後遺症で満足に働けなくなった父・辰五郎は、勤務先が同業他社に買収されたことに伴い、人員整理の対象になる。石黒家では小学校6年生の長男・タカユキ、未就学の次男・テツハルがいるのに加え、赤ん坊が生まれたばかりであり、家計は火の車となる。

隣人で父・辰五郎の元同僚の若者・克巳が石黒家を見かね、新会社の労働組合を通じて社長にかけ合い、数か月分の【傷病手当金】相当の金額を支払わせることに成功するが、「アカの世話になった」ことを恥じる父・辰五郎は、その金をすべて酒と【オートレース】につぎ込んでしまう。

<参考2>:『アカとは、社会主義や共産主義のことを指す隠語もしくは蔑称である。』

ジュンは生活費や志望する【全日制高校入学】に必要な学費を稼ぐため、級友・ヨシエが働く【パチンコ店】でアルバイトを始める。動けるようになった辰五郎の妻できょうだいの母・トミも、これまで従事していた【内職】をやめ、【居酒屋】で働き始める。弟・タカユキは小遣い稼ぎのために野鳩の卵を集め、【伝書鳩】として訓練して売りさばくことを思いつくが、かえった雛を猫に食べられるなどしてうまくいかない。

修学旅行を控えていた中学のクラスでは、【物価高騰】にともない、生徒たちが持ち出せる現金の額を上げるよう教師たちに要求しており、学級会で採決をとることになった。居合わせた担任教師の野田は、積極的に賛意を示さなかったジュンを気にかける。野田は下校中のジュンを追い、パチンコ店に入ったところを認める。そこに野田の元教え子である克巳が現れてジュンの事情を説明する。翌日、野田は市の教育委員会が貧困生徒のために修学旅行費用を助成していることを教え、ジュンに小遣いを渡す。

父・辰五郎はジュンの級友であるノブコの父・東吾の紹介で新たな鋳物工場の職を得るが、【オートメーション化】された工場の中に【勘と経験】を頼りとする古い職人の居場所はなく、家族に告げずに辞職してしまう。

父・辰五郎はジュンが修学旅行に出発する日の朝にそれを伝え、家族は恐慌をきたす。級友・ノブコに会わせる顔がなくなったジュンは集合場所の川口駅へ行かず、河川敷で時間をつぶし、普通列車に乗って志望校のある浦和へ行く。フェンス越しに志望する高校をのぞいたジュンは、お遊戯会のような体育の授業を目の当たりにして幻滅する。一方同じ頃、同じように学校をサボって浦和に来ていた弟・タカユキは、育てた鳩をそこで放し、自宅の鳥かごに帰って来させることに成功する。

川口に戻ったジュンは、思わず母・トミの働く居酒屋をのぞいたところ、トミが男相手に愛想を振りまく様子を見てショックを受ける。そこでジュンは【不登校生】の通称「リスちゃん」に再会し、バーに誘われ、初めて酒を飲む。そこで不良少年たちに乱暴されかけるが、危うく逃れる。この日以来ジュンは中学校に行かなくなる。

ジュンを心配した野田が石黒家を訪問する。「勉強したって意味がない」と吐き捨てるジュンに、野田は「受験勉強だけが勉強ではない。高校に行かずに働くとしても、目の前で起きることへの理解を積み重ねて、いつでも自分の意見を持つために、人は勉強をしていかなければいけないのだ」とさとす。

登校を再開したジュンは、社会科見学で電機メーカーの工場を訪れる。働きながら【定時制高校】で学び、部活動にもいそしむ女性工員たちの姿を見て、ジュンは自立した現代の労働者の姿を見いだし、あこがれを抱き始める。

ある日、級友・ヨシエの一家が【在日朝鮮人の帰還事業】に応じて、日本人の母親を残して北朝鮮へ帰ることになる。ヨシエの弟でタカユキの親友・サンキチも日本を離れることになり、彼を送り出すために川口駅に来たタカユキは、自分が育てた伝書鳩を手渡し、「手紙をつけて西川口で窓から鳩を放してくれ」と頼む。ヨシエは同じく駅に来たジュンに、愛用の自転車を贈る。

<参考3>:『在日朝鮮人の帰還事業とは、1950年代から1984年(昭和59年)にかけて行われた在日朝鮮人とその家族による日本から朝鮮民主主義共和国(以下、北朝鮮)への集団的な永住帰国あるいは移住である。

主として1959年から1967年にかけて、「朝鮮」籍50万人弱のうち、北朝鮮に永住帰国したのはおよそ9万3000人(うち、北朝鮮に渡った日本人の妻は約1831人)であった。』

<参考4>:『1977年(昭和52年)11月15日は、当時中学1年生であった横田めぐみさんが新潟にて北朝鮮に拉致された日である。この映画の公開された1962年からは15年経っていた。』

【帰還船】の出る新潟港へ向かう列車は西川口駅に差し掛かり、サンキチは鳩を放す。川口へ飛んでいく鳩を見て日本に残る母恋しさに駆られ、サンキチだけが大宮駅で列車を降りる。しかしサンキチが川口に戻ると母は経営していた食堂を閉め、別の人物と結婚するために姿を消していた。タカユキは次の帰還船が出る年明けまで、近所に住む崔の一家にサンキチを預け、「もう人の世話になるのはやめよう」と誓い、ともに新聞配達のアルバイトを始める。

父・辰五郎は突然、元の職場での復職が決まる。克巳がやって来て祝い酒をふるまうが、その場でジュンは電機メーカーに就職する意向を明かす。サンキチが新潟に向かう朝、ジュンと弟・タカユキは跨線橋から列車を見送る。その日はジュンの就職試験の日でもあった。きょうだいは街を駆けて行った。

キューポラのある街 – Wikipedia

在日朝鮮人の帰還事業 – Wikipedia

経団連は北朝鮮への献金を推奨する気なのか?

サイバー戦争と日本国憲法!

警察庁「サイバー特別捜査隊」もっと増員を!

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日本を今一度、洗濯せねばならぬ時かも!

日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候(もうしそうろう)!
世に有名な坂本龍馬の名言である。

今から160年前、龍馬が文久3年(1863年)に、姉の乙女あてに送った手紙の中で使われた言葉である。
原文にはもう少し続きがあり、「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候。」とある。
つまり、「事ニいたすべくとの神願ニて候。」と龍馬自身が洗濯するのではなく、神様に洗濯を御願いしたいと述べているのである!

それから5年後の1868年に江戸幕府は倒され、日本は「洗濯されて」明治の時代が始まった。

しかし、チョット考えればこの時も日本が日本自身のニーズのみで、「洗濯した」訳ではないことは明白である。

当時の欧米列強、すなわち英国、フランス、ドイツ、ロシアに米国という巨大なパワーによる、有形無形の大きな圧力により「洗濯させられた」とも言える!

その後は1945年までの77年間で、我が日本は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争(第二次世界大戦)と、戦争の準備が完了した1894年の日清戦争を皮切に、およそ10年キザミで大きな戦争を、なんと5回も自らの意志でやらかしたのである!

その結果、1945年8月の太平洋戦争の敗戦により、米国によって日本は「再び洗濯させられた」のであった。

太平洋戦争の敗戦による、「この洗濯」は民間人と軍人を合わせて、実に310万人もの国民の尊い命の犠牲のうえに実現された誠に切なく悲しいものであった!

それからまた同じ年数の77年を経過したのが、2022年つまり昨年のことである。

仮にコロナ禍やロシアのウクライナ侵攻という難題がなくとも、日本は「失われた30年」などと、国民が閉塞感に悩み、そしてその閉塞感にまるで飼い慣らされるがごとき時代が続き、国民自身もあまりその状況を深く考えることはせず、むしろ淡々と「大人の知恵」として受け入れて来たのである!

その結果、多くの国民が明るい希望や夢を抱きにくい、今の世の中となっている!

1945年から78年の2023年、戦後の復興や奇跡的な高度成長にバブル経済、そしてバブルの崩壊とバブルの清算という時期を経て、78年間のたまりにたまった「垢(アカ)」こそが、希望や夢を抱きにくくしているのではなかろうか?

なになにはしないように空気を読めと、その細かさに疲れる社会のルールが異常に増殖。そんなルール自体が、巡り巡ってみんなの首を絞めているという、まるでマンガのような因果は巡る閉塞感に悩んでいるのではなかろうか?

そして、安倍元首相暗殺事件、子どもの虐待死事件、理解不能で無念極まりない巻き込まれ型の殺人事件、スマホを利用しての闇バイトでの強盗事件に加え、マイナンバーカードへの国民不信の問題、失踪する海外技能実習生の問題、非人道的な入管の問題、さらには年間に生まれる子どもの数がとうとう80万人を割り込むという少子化問題など、たまりにたまった「垢(アカ)」が山積みのような状態である!

この「垢(アカ)」を落とすには、やはり「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候(もうしそうろう)!」であろう!

やれデジタルだDXだと掛け声ばかりではなく、本気で「アナログのスマートな再活用」なども踏まえ、今の世の中でやらねばならないことを誤魔化さず、逃げずに、真摯に向き合いキチンとやり切るだけのこと!

それが、令和の日本の「洗濯!」の一歩となろう!

何よりも人さまの命を尊重した、令和の時代に相応しい、珍しくも我が日本の「自主的な」数多の「洗濯!」が必要な「時!」が、日本中のモノとコトにおいてキット到来しているのであろう!

ただし、1945年のごとき悲しく切ない戦争による「洗濯!」は、二度とゴメンだ!

ああー、神さんに今日もシッカリとお祈りしたい!

坂本龍馬の名言や格言 今一度日本を洗濯致し候はじめ歴史に名を残す30選 (future-anxiolytic.com)

【坂本龍馬の名言・格言集】日本を今一度せんたくいたし申候 | | 坂本龍馬.com (sakamotoryouma.com)

アナログの逆襲がはじまった 「ポストデジタル経済」は「昭和」が新しい!(気になるビジネス本): J-CAST 会社ウォッチ【全文表示】

「倜儻不羈(てきとうふき)」という言葉!

こども家庭庁に望むこと!

コンプライアンス・ラプソディ!

三菱ジェット機は飛べず、みずほline銀行断念!

ますます息苦しくなる「予測と統御」の今をどう生き抜くか!

そうだったのかビートルズ!

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そうだったのかビートルズ!

1966年6月30日から7月2日にかけて、ビートルズ唯一の日本公演が東京の日本武道館で行われた。

少年時代このニュースを何度も見た記憶は、今も鮮明にある!

ただし、当時ビートルズに抱いていた印象は、日本でも大いに流行っていたグループ・サウンズの海外版というイメージただそれだけのものであった。

そして、1970年ビートルズが解散した後は、もっぱらジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻の話題くらいであった。

とは言えど、1980年にジョン・レノンがニューヨークの自宅前で凶弾に倒れた際には、なんとも言い難い複雑な悲しさの記憶が今もなお残っている。

今回NHKの「映像の世紀」をじっくりと見るまで、1960年代にビートルズが英国社会や米国社会、さらには当時冷戦時代の最中にあったソ連を始めとする東側の国々にまで、それ程までの影響を与えていたことを詳しくは知らなかった。

当時の米国における黒人差別問題は当然知ってはいたが、英国の貴族階級や上流階級と労働者階級の線引きが、あれほど滑稽なほどに鮮明になされていたとは思いもしなかった!

そのころ我々日本人は、高度成長期の真っ只中にあり、ひたすら「一億総中流」に向かって走り続けていた時代であった!

日本では貴族階級や上流階級という言葉は、1945年の敗戦以降、もはや死語となっていた時代といってもよかった。

まさかその当時の英国社会が、我が日本社会よりも遅れた封建的なイメージのする社会環境にあったとは、子ども心には思いもよらなかったのである!

1:ビートルズ 吹き飛ばしたり 英米の 階級社会 

肌の色さへ!

2:明治維新 日本は変えし 身分制 ビートルズ変えた 英国社会よ!

3: 差別受く 米黒人は ビートルズを 白人と呼ばず ただビートルズと呼び!

4:廃棄さる レントゲンに音 きざみ聞く ソ連のヤング ビートルズレコード!

5:手をつなぐ 老若男女 二百万 バルトの民が ビートルズ唄いと! 

6:ジョン言いし 60年代 潮流を ただ舳先にて みんなと見ただけ! 

ビートルズの革命を描くNHK「映像の世紀」が2週連続放送 誕生から解散後まで〈赤〉〈青〉の時代に迫る | Mikiki

ビートルズ誕生60年「歴史の証人」が語る実像 「ジョン・レノンが育った家」管理人の思い | 映画・音楽 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

ビリー・アイリッシュ!

みんなの「流行り唄」がない令和の世に!

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ミッドウェー海戦、日米合わせて3418人の犠牲の上に!

ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日(米国標準時では6月4日)から7日にかけて、中部太平洋上の米国領ミッドウェー島付近で行われた海戦である。

同島攻略をめざす日本海軍を米海軍が迎え撃つ形で発生。日本海軍空母機動部隊と米海軍空母機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその艦載機約290機の全て、および兵士ら3057名を失った。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。一方の米海軍は正規空母1隻と多数の航空機、および兵士ら307名を失った。

と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のミッドウェー海戦には記されていた。

ところが、ノンフィクション作家の澤地久枝さんが、約7年もの歳月をかけて、ミッドウェー海戦での日米戦死者は、日本人が3056人、米国人は362人、合計3418人であることを突き止められたのである!

その著書である『記録 ミッドウェー海戦』は、手紙やインタビューを通じて彼らと遺族の声を拾い上げ、全名簿と統計を付した圧巻の記録である。前例のないこの功績により、『記録 ミッドウェー海戦』は、第34回菊池寛賞を受賞された。

澤地さんが仰っておられるには、「私が突き止めたかったのは“命の重さ”だった」!

ミッドウェー海戦 3418人の命を悼む 第一部「命の重さ」 – ETV特集 – NHK

このミッドウェー海戦の敗北は、当時の日本帝国海軍にとっては、日本帝国陸軍における「ノモンハン事件」と同じく、多くは語れない、語りたくない敗北であったのだ!

1:ミッドウェー 日米の死者 サンヨンイチハチ(3418) 澤地さん見つく 忘れられし人!

2:月一度 議事堂前で 自問される 澤地さん見て 背筋ぞ伸びん!

3:戦争に 良い戦争なぞ ありもせず それ知る仲間 増やすしか無い!

4:ミッドウェー 戻る母艦を 沈められ 伯父も不時着 海の上なりと!

5:空母より 無くし惜しきは 空の猛者 空には散らず 船にて沈むを!

6:それがため 伯父の任務や 神風を 敵艦隊に 連れて見届くと!

日米戦死者3418人を突き止め、その声を拾い上げた圧巻の記録。澤地久枝著『記録 ミッドウェー海戦』|じんぶん堂 (asahi.com)

沖縄県民斯ク戦ヘリ!

ヒロシマ&ナガサキ=The Principal Ground Zero!

日本海海戦「Battle of Tsushima」の旗艦は戦艦三笠であったが!

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば!

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや!

ミッドウェー海戦 – Wikipedia

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鄧小平と二度の天安門事件!

世界的に有名なよく知られた事件ではあるが、中国においては特に1989年以降に生まれた若い人々に、知らされていない天安門事件!

今も中国共産党政府が、中国国内に向けては隠しに隠しまくる事件とは、1989年6月4日の鄧小平の二度目の天安門事件の方である!

ここまで事実を隠さねばならない程、きっと恐らく中国共産党にとっては「弱み」となった事件なのであろう!

まず初めに鄧小平と最初の天安門事件とは、1976年4月5日天安門広場において、同年1月8日に死去した周恩来首相の追悼の為に捧げられた花輪が、北京市当局により撤去されたことに対し、激昂した民衆が警備隊と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件である。

当時の最高権力者であった毛沢東は、NO2の周恩来への不信感を強め、対抗する「文革四人組」を用いて牽制したり、周恩来と同じように実務にたけた官僚の鄧小平を復権させて、周恩来の代わりに据えようとするなど、NO1とNO2の対立が深まっていたのだ。

この最初の天安門事件においては、二度目の政権中枢からの追放になってしまう鄧小平の役割は、まだホンの脇役の一人に過ぎなかった!

余談ではあるが、日本と中国が国交を正常化させたのが、この4年前の1972年の9月29日、当時の田中角栄総理大臣と周恩来首相が日中共同声明に調印し、両国民の記憶に鮮明に残る熱烈な握手を交わした時であった。

一方、米国のニクソン大統領の初の訪中は、その約半年前の1972年2月の話である。その後1973年1月にはパリ和平協定が調印され、べトナム戦争も終結。米中双方は、協力して共通の敵であるソ連に対抗するという戦略構想を、さらに一歩確実なものへと進み出したのだ!

勿論1949年の中華人民共和国の建国時から10年ばかりは、支援を受けたソ連との熱烈な蜜月の時代であった。しかし、時が経つにつれ、米国をはじめとする西側諸国との「都合の良い協調」にメリットが多いソ連と、「協調」にはまだ何のメリットも望めない中国には、大きな路線の違いが生じて来たのである。その結果、毛沢東とフルシチョフの関係は険悪なものとなり。やがては、敵対する関係になってしまったのである!

閑話休題、最初の天安門事件に至る伏線とは、1974年9月30日の建国25周年記念式典で周恩来首相が、文革で失脚した人々を特別に呼び寄せ来場者から大絶賛された。このことは毛沢東にとって格好の周恩来への攻撃材料となるはずであったが、用心深い周恩来は、乾杯の際にあらかじめ毛沢東を賛美する言葉を述べて非難の矛先をサラリとかわした!

これにはさすがの毛沢東も、「周のことをあきらめてないが、今は時期が悪い。自覚の薄い国民は周の事を知らぬ。今やると混乱を招く」と述べて周恩来への攻撃を止めざるを得なかった。

「周に反すれば民は反す。」といわれるほど、周恩来への大衆の人気は極めて高かったのだ!

ゆえに、1976年1月の周恩来の死は、中国国内に大きな悲しみをひきおこし、周恩来を評価し「文革四人組」を攻撃する壁新聞が出回り始めるなど文革全盛期にはあり得なかった事態が起こっていた。毛沢東夫人である江青をはじめとする「文革四人組」はこうした空気に大いに危機感を募らせていた。

そして、周恩来が亡くなったと同じ年の1976年9月9日にはなんと毛沢東本人も死去、後ろ盾を失くした江青たち「文革四人組」の命運はついに尽きたのであった。

1976年とは、中国国民と中国共産党にとって、奇しくもNO1とNO2の双方を失った特別な一年なのであった!

そこからはよく知られているように、1977年7月に3度目の復権を果たす鄧小平の、「鄧小平の時代」が始まるのである!

さて、ここからが肝心な鄧小平と二度目の天安門事件である!

鄧小平にとっての二度目の天安門事件とは、1989年6月4日(日曜日)に天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、中国人民軍が武力行使し、多数の死傷者を出した事件なのである。

一度目の天安門事件では脇役に過ぎなかった鄧小平であるが、それから13年後の二度目の天安門事件では、まさにその主役を演じたのだ!

また余談ながら、当時の世界の情勢を振り返ると、世界中で民主化運動が激化し、1989年11月9日にはついに東西ドイツのベルリンの壁が崩壊した!

さらに、東欧の民主化が一気に進むと同時に、この動きはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立にまで波及していく。

なお、1989年とは、日本では奇しくも「昭和という時代の終焉」と「東西冷戦体制の崩壊」が重なった年でもあった!

また、国民的歌手で「歌謡界の女王」であった「美空ひばり」が52歳という若さで亡くなった年であったのだ!

閑話休題、中国の話の戻ると1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、事実上の最高権力者こそは鄧小平が続けていたが、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進。胡耀邦は国民から「開明の指導者」と謳われ、政治改革への期待や支持が高まったのである。

これに対して、鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した!

そして、胡耀邦は1987年1月16日の政治局拡大会議で、鄧小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚となるのであった!

その後は、胡耀邦の後任として、改革派ながらも穏健派と目された趙紫陽総理が総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出されたのだ。

一方、胡耀邦は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中、心筋梗塞で倒れ4月15日に死去した。

翌4月16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡耀邦の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。

これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌4月18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行ったのち、民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。

翌4月19日には、北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった。

学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めたころからであった。

西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生した。

そのような最中、趙紫陽は腹心の部下である田紀雲らの忠告にもかかわらず、「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り4月25日に行うことを決め、李鵬首相に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。

しかし、出国してすぐの4月25日、李鵬首相や北京市党委書記、北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、鄧小平の談話を下地にニュース番組で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。

そこには北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。

趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬首相と対立したが、5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。

五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。

鄧小平や保守派の長老も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まったハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を破綻させた!

ソ連のゴルバチョフ書記長が訪中する5月15日以前に、活動を収束させることで鄧小平、楊尚昆(国家主席)、趙紫陽の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したためハンガーストライキの終結は困難となった。

この頃中国全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せて英国の植民地であった香港、日本や米国などの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。

このような状況下、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、ソ連国内の改革を「ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)」で進めていたゴルバチョフ書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問したのである!

中国共産党は、ゴルバチョフと鄧小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。

さらにゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日、人民大会堂での会見で記者を前に、「鄧小平同志は1978年の第11期三中全会より国内外が認める我々の党の指導者だ。第十三回党大会における彼の要求に基づき、中央委員会、政治局と政治局常務委員会からは退いたが、我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。1つ秘密を話そう。第13期一中全会では正式な決定を行っている。これは公布していないが重要な決定だ。 つまり、我々は最も重要な問題において彼の指導を必要とするというものだ。」と「最終決定権が鄧小平にある!」ことをハッキリと明かしてしまったのである。

外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったが、結果的には中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった。

その当事者であるゴルバチョフ本人は、当初の予定通り5月17日に帰国する。

その5月17日の午後に改めて、党長老で事実上の最高権力者である鄧小平中軍委主席に加え陽昆陽国家主席を含めた会議が鄧小平の自宅で行われたところ、戒厳令の布告について趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が中立の意見を表明し、5人の政治局常務委員会は割れた!

政治局常務委員ではない楊尚昆が賛成を表明した後、政治局常務委員会による投票をすることなく、鄧小平は以下のように発言し戒厳令の布告を決定したのだ!

「事態の進展を見ればわかるように、4月26日付社説の判断は正しかった。学生デモが未だ沈静化しない原因は党内にある。 すなわち、趙紫陽が5月4日にアジア開発銀行の総会で行った演説が原因なのだ。今ここで後退する姿勢を示せば、事態は急激に悪化し、統制は完全に失われる。よって、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」

このように、鄧小平は最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。英国の機密文書によると「200人の死が中国に20年の安定をもたらすだろう!」と鄧小平が語ったと記録されている

そのような経緯を経て、それから18日後の6月4日の日曜日に二度目の天安門事件は起きた!

中国共産党の公式発表では、「動乱で319人が死亡(民間人と軍、警察の合計)」となっているが、この事件による死傷者については、上記の中国共産党による報道規制により、客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり、死者数は定かではない!

日中国交正常化50周年に想う!

孫中山こと孫文の夢!

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中国人民解放軍空軍を育てた大日本帝国陸軍!

中華人民共和国の老人方は台湾を統一すれば幸せになれるのか?

参照:六四天安門事件 – Wikipedia

【その時音楽シーンが動いた #4】33回忌に振り返る美空ひばり 昭和とともに旅立った”歌謡界の女王” | ENCOUNT 1989年(平成元年)6月24日午前0時28分“歌謡界の女王”美空ひばりが52歳の若さで逝く!

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日本社会と外交への願い!

アフターコロナの時代に入りつつある今も、ロシアによるウクライナ侵攻は続いている。こんな状況の中だからこそ、一人の日本人として、これからの日本がこうであって欲しいなぁと思う願いを三つばかり考えてみた!

まず第一は、平和である!
「江戸時代」に実現させた250年以上の平和の記録を、是非更新して貰いたい。

第二は、明るいオープンな社会である!
国民が、ホドホドに豊かな経済力を持ち、高齢になっても健康な生活が送れる「予防医学」がシッカリと確立され、ほど良く配慮されたダイバーシティの下、各人各様の好きな生き方を選択できる社会がよい!

第三は、災害に対する減災力の強い国になること!
「4枚のプレート」の上にある我国は、地震から逃れること自体が必然的に不可能である。
必ず起きる地震災害を、どれだけ小さな被害に出来得るかが大事なのである。これは台風や水害についてもまったく同じことが言える。

以上、三つの願いを実現するには、何をなすべきかを考えると、日本人自身の「たゆまぬ努力」に加えて、他国の人々とどのように付き合い互いに「ウインウインの関係」を築くかにつきる!

そこで、これからの日本外交に必要な外交の具体的な条件とは何か?を考えてみた。
1:世界の平和に貢献する。
2:自由な民主主義を守る。
3:我国が他国からさらに信頼される国になる。
4:他国のことをよく理解する日本人をもっと増やす。
5:他国の日本ファンをもっと増やす。

以上五つの条件を成し遂げる為には、どんな「外交努力」が必要なのであろうか?

ざっくりと思うことは、こんな具合である。(個人的なイメージの現在点数は100点満点中の点数)

1:日米関係のさらに進化し、成熟した親密なる大人の関係。(現在85点)

2:G7における互いの事情を踏まえた、さらに進化し成熟した各国別スタイルの大人の関係。(現在75点)

3:日韓台三国の歴史における植民地問題をも踏まえた、さらに成熟した大人の関係。(現在60点)

4:中国との一衣帯水の歴史的な繋がりを踏まえた、平和を守り合う適切な大人の関係。(現在55点)

5:アセアン諸国とのよりスマートに協調した、さらに進化した大人の関係。(現在60点)

6:インド・インドネシア・フィリピン三国との互いの立場をクールに踏まえた、さらに進化した大人の関係。(現在60点)

7:日系人の多いブラジルを核とした南米諸国との、地球の裏側繋がりの深くてユニークな大人の関係。(現在55点)

8:ウクライナ侵攻停止後のロシアとの、東アジア全体を俯瞰した大人の関係。(現在50点)

9:アフリカ諸国との、旧宗主国ではない立場を大いに活用した新たな大人の関係。(現在40点)

10:北朝鮮の立場も一部考慮しつつ、平和を維持する適切なる大人の関係。(現在30点)

以上であるが、特に今すぐアクセルを踏むべきは、3の日韓台の三国関係、5のアセアン諸国との関係と6のインド・インドネシア・フィリピンとの三国関係である!

今の60点から、早急にG7並みの75点レベルを目指して貰いたい!

ASEAN(東南アジア諸国連合)の人口等は今!

記憶に残るG7ヒロシマ!

満州国を今みんなのケーススタディに!

コラム:日本が優先すべき5つの外交課題=ブレマー氏 | ロイター (reuters.com) 2014年5月

「チャレンジ2001-21世紀に向けた日本外交の課題-」 (mofa.go.jp) 2001年外務省

四枚のプレートの上で踊る我が日本!


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