2024年6月23日は第二次世界大戦後79年目の沖縄慰霊の日である。
慰霊の日とは、沖縄戦で犠牲となった我国民だけでなく、敵も含めた20万人以上の方々の霊を慰め世界の恒久平和を願う日であります。
過去の話ではなくまさに今現実にガザやウクライナで起きている惨状を思うと、この慰霊の願いが時空を超えて世界中に広がることを願うばかりです。
なお、20万人以上の犠牲者のうち、軍人ではない一般の犠牲者は推計で約10万人でした。即ち、当時の沖縄県民の4人に1人が命を落とした壮絶で悲惨極まりない戦いでした。
1945年3月23日から6月23日の三カ月間に亘り行われた戦闘で、敵であった連合国側将兵の犠牲者は2万人強です。
そうです、日本側の犠牲者は一般の沖縄県民が約10万人、日本軍の将兵が8万人です。軍人の犠牲者よりも一般の沖縄県民の犠牲者が2万人も多かったということです。
勿論、日本の本土もヒロシマ、ナガサキの原爆を始め、全国の主要都市のほぼ全てがB29による爆撃で焼け野原とされましたが、日本の中で敵味方が死力を尽くす戦争が行われたところは、唯一沖縄県のみでした。
まさしく沖縄の皆さんが、有無をいう暇すら与えられずに日本を守る為の盾の役割を当時の国から強要されたのです。
この歴史は我々日本の国民全員が忘れてはならないことです!
この戦いの中で最後の海軍沖縄司令官が東京の海軍次官に宛てた有名な電報文「沖縄県民カク戦エリ」がありました。
海軍の沖縄方面司令官であった大田実少将が、自決する1945年6月13日の一週間前に多田武雄海軍次官宛に発信した電報です。
なお、沖縄戦時の沖縄県知事であった島田叡と大田少将は、戦闘の最中でも密接な連絡を取り合い、二人は「肝胆相照らす」仲であったといいます。大田が最後に残した電文中にある「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の冒頭文の文言は、本来民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは、「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」と言った自分達軍人ではなく、最後まで彼ら県民と共にあった島田達であるはずであるが、既に沖縄県庁の組織自体に通信能力が無く、やむを得ず大田が、行政官である島田に代わって県民の姿を伝えるという意思から綴られたと考えられています。
以下その電文ですが、フリー百科事典「ウィキペディア」Wikipedia より引用させて頂きました。
この多田海軍次官に宛てた太田少将の電報には極めて明白な特徴がありました。
即ち、当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉は一言も使わず、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えています。
<原文>
文中の□部分は不明
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
<現代語訳>
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
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