安倍元首相暗殺事件に端を発する旧統一教会問題で、寄付金のことが今一つの焦点となっている!
ならば寄付金とは長い付き合いのある、欧米諸国のキリスト教ではそれはどんなもんかと覗いてみた!
聖書に関する質問の答え(日本語版 www.GotQuestions.org )のアプリによると、クリスチャンの十一献金(十分の一献金)について聖書は何と言っていますか?
という質問に対する回答はこんな風でありました!
十一献金(十分の一献金)というのは、旧約聖書の概念です。
十一献金は、多くのクリスチャンが苦闘する問題であります!
多くの教会では、十一献金があまりにも重要視され過ぎています。 同時に、クリスチャンの多くは主に捧げものをしなさいという旧約聖書の勧告に従おうとしません。
十一献金は、本来は喜び、祝福となるはずですが、悲しいことに今日の教会ではそういうケースはめったにないのが現実です。
<<冒頭からキリスト教においても、信者のみなさんが寄付金のことで相当に悩んでいる様子が伺えます。どこの宗教でもまったく同じことであるようです!>>
十一献金とは旧約聖書において律法の要求するものでした。
古にはすべてのイスラエル人は自分で稼いだもの、生産した物のすべての10%を捧げなくてはならなかったったのです。
しかし、新約聖書ではどこにもクリスチャンに律法的な十一献金に従うようにと命令はしておらず、勧めてもいません。
新約聖書のどこにも、収入の何パーセントかを、寄付のために蓄えておくようにとは言っていないのです。
ただし、「各々の収入に応じて!」とだけは言ってます!
キリスト教会は、本来は旧約聖書にあった十一献金という数字の10%を当てはめて、あたかもクリスチャンが捧げるべき最低限の寄付とみなして推薦した訳です。
新約聖書は特別、金額とかパーセントの数字を挙げてはいませんが、捧げることの重要さとその利益はしっかり教えています!
<<捧げることの重要さとその利益という、その利益が重要なポイントですね。つまり、当然なんらかの見返りがあるのやから寄付しなさいとハッキリ教えるようですね!>>
可能なだけ、「その収入に応じて」捧げるべきなのです。 時には、それは十分の一以上ということかもしれません。また時にはそれ以下しか捧げられないという意味になるかもしれません。 すべてそれはクリスチャンのできる限りと、教会の必要次第なのであります。
<<新約聖書では十分の一と言わないだけで、出来る範囲で可能な限り寄付をせよとの奨め!言わばソフトな寄付金奨励!>>
クリスチャン一人一人がよく祈って、神の知恵を求め、十一献金をするかどうか、またいくら捧げるべきか決めるべきなのです。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
<<この、いやいやながらではなく、強いられてでもない、自分の心で決めたとおり、というのがポイントですな!>>
実に上手いスマートな寄付金奨励のキャッチフレーズです!
さすが2000年以上も長きに亘り寄付金を集めて来ました!
大いに洗練された歴史を感じざるを得ず!
しかし、マルセル・モースの言葉を借用すると、「寄付がもたらすもの、それは存在の名誉というものなのである。」
ということかも知れません!