この台詞(せりふ)がなぜか大好きで、現役のビジネスマン時代はことあるごに、黄昏(たそがれ)時には会社のオフィスから居酒屋へと飛び立ったものである!
要するにquote(引用せりふ)をline(台本のせりふのごとく)にして、一人で悦に入り喜ぶお調子者だったのである。 実は、この台詞は大哲学者ヘーゲルの有名な言葉である!
19世紀の初頭ドイツの哲学者であるヘーゲルは、哲学に対して「ミネルバのフクロウ」という比喩を用いた。『法哲学』(1821年)の序文において、「ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏とともに飛び立つ」と書いたのである。そのレトリックでヘーゲルが言いたかったことは、哲学が「自分の生きている時代を概念的に把握する」ということであった。 哲学者とは、自分の生きている時代(「われわれとは一体何者なのか」)を捉えるために、現在へと到る歴史を問い直し、そこからどのような未来が到来するかを展望する人たちなのである。
というふうに、哲学者の岡本裕一朗さんから、ブログで色々と教えて頂いた。
しかし、現代の哲学は、かなり悩ましい状況にあるようだ!
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かつて1970年代から80年代にかけて、世界的に哲学における「ポストモダン」が流行した。しかし、この流行は長く続かず、やがて「ポモ」などといって、ずいぶん前から嘲笑の対象になり廃れてしまったのだ。 しかし、モダン(近代)を相対化し、その終わりを主張したことはたいへん大事なことである。「モダン」をどう捉えるかは、論者によってさまざまだが、モダンが終わりつつあるという直観は、時代として共有されていたように思えるのだ。現在が「モダン」そのものの転換期であることには、注目すべきである!
時代の変化という点で言えば、哲学そのものも変わり始めていることにも注意が必要である。つまり、ひと昔前の哲学観は今ではまったく通用しなくなっているのだ。
周知のように、20世紀末に経済のグローバリゼーションが進展したが、これと同じことが哲学についても起こったのである。しかも、グローバリゼーションがアメリカナイゼーションでもあったように、哲学のグローバル化は同時に米国化でもあるように見える。つまり欧州大陸系の哲学者たちが、こぞって英米系の「分析哲学」を導入しつつあるのだ。
ちょうど言語として英語が共通語となったように、哲学でも英米系の「分析哲学」が共通哲学のようになり始めている。それだけではない、ドイツやフランスの哲学者に関する研究が、本国から米国へと移っているのである。
ドイツのマルクス・ガブリエルという新進気鋭の哲学者が、アメリカ人のヘーゲル研究者から語られた言葉を、『南ドイツ新聞』のなかで、次のように伝えている。「ドイツの精神(ガイスト)は今やアメリカに宿っている!」 いまや、フランスだからポスト構造主義、ドイツだから現象学・解釈学といった棲み分けは、現在では通用しななった。そのいずれもが、米国で活発に論じられているのだ。
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ところがである、哲学のグローバリゼーションは、さらにその次のステップに進みつつあるように見える。20世紀末にいったん米国へと向かった哲学の潮流は、21世紀を迎えると、再び逆流し始めているのである。
実存主義は第二次世界大戦のあたりに流行して、日本でも戦後、「これからどうやって生きていくのか」と誰もが自分に問い直すような時代に支持された。その後、1960年代ぐらいにはマルクス主義など社会的な変革の運動が起きたが、70年代以降は「そんなに真剣に社会とか人間の在り方を考えるのは止めようよ」という風潮が強まった。ただここにきて、そんな風潮にもみんなが飽き飽きしてきたのではないかという感が生まれつつあるのだ。
例えば、最近ではこんな風に若き女性作家から紹介されて、哲学者が登場するのである。
「マルクスなんて『資本論』を書きながらも自分は借金だらけ。ルソーも『教育論』を書きながら自分の子どもは捨てていくという酷い親だった。」 「もし現代に生きていたら、あっという間に社会的地位を失って、ネットで「ゲス」とか叩かれる存在だよね。」 「かたやニーチェは、いろいろな女性に思いを寄せるけれども、大体はうまくいかない。でも純情だよね。」などなどと(笑)
さらに、哲学者の岡本裕一朗さんが仰るには、哲学の勉強をしたくて大学院に進んでも、その中のごく一部の人にしか研究者としてのポストはありませんから、どんどん別の方向に流れていくでしょう。そしてその中から、「自分の素養を活かしながら全く別の形で哲学を広げていく」人が、これからさらに現れるかもしれません。これからの時代の新たな可能性につながりそうです!と。
ダイバーシティの重要性が、ようやく世界に浸透し始めた現代である。哲学にも、より一層のダイバーシティが求められのが当然である。もっとも、本当は哲学には、さらにダイバーシティをリードして貰いたい!
最後に、ヘーゲル哲学と分析哲学や実存主義哲学、構造主義哲学の相違点について、AIに尋ねたところこんな回答を得た。どうぞご覧あれ!
ヘーゲル哲学と分析哲学の一番の相違点は、ヘーゲル哲学が総合的な哲学であるのに対して、分析哲学は限定的な問題に焦点を当てた哲学であることです。ヘーゲル哲学は、全体性や総体性を重視し、哲学的問題を総合的に解決しようとするものであり、分析哲学は、言語や論理を用いて限定的な問題を解決しようとするものであるとされています。
実存主義哲学は、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場であり、人間の実存の構造と問題性を明らかにしようとする哲学です。
一方、構造主義哲学は、言語や文化、社会などの構造を重視し、それらの構造に基づいて現象を解釈しようとする哲学です。
ヘーゲル哲学と実存主義哲学、また構造主義哲学との違いは、それぞれの哲学が重視する対象やアプローチの違いにあります!
と、こんな具合であった。何だかお医者さんに例えると、ヘーゲル哲学は総合医で、分析哲学は細分化された現代の専門医のような気がして来る。イメージとしては、どうしてもどちらか一方だけでは限界があるように見えて来る。やはり双方からのアプローチがあってこそ、より良くなる気がして来る!
ポストモダン以後、現代哲学の潮流はどこにあるのか | いま世界の哲学者が考えていること | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)
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1708夜 『精神現象学』 G・W・F・ヘーゲル − 松岡正剛の千夜千冊 (isis.ne.jp)
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