師と仰いだ伊藤博文と愛弟子の原敬を、共に暗殺により失った最後の元老西園寺公望の思いを想像してみたい!
ご存知にように、西園寺公望は自身も内閣総理大臣を二度経験し、首相辞任後は天皇の側近である元老として、大正から昭和15年までの長い期間、日本の政治に深く携わり続けた人物である。
西園寺公望は、江戸時代末の1849年に右大臣を務めた公家・徳大寺公純(だいとくじきんいと)の次男として京都に生まれ、二歳で西園寺家の養子となった。
明治元年1868年(19歳)の戊辰戦争においては、総督として各戦場の指揮を執った。戊辰戦争の後には新潟府知事にも就任した若き青年貴族であった。
維新の中心にあった薩長の高官からすると、彼はお飾りの為の総督であったろうが、間違いなく幕末から明治維新の際に明確な役割を演じていたのである。
1870年(21歳)には京都にて私塾・立命館(立命館大学の礎)を創立するも、政府から反政府的と指弾され私塾を閉じた。
明治新政府のやり方に嫌気がさしていた彼を、政府の大物であり師のような存在であった大村益次郎が生前に諸々を配慮し、自ら彼を推薦してフランス留学に向かわせるのである。悲しくも大村自身は直前の1869年11月暗殺により落命、享年45歳であった。
そんな流れから1870年、西園寺は10年間にわたるフランス生活をスタートさせ、パリのソルボンヌ大学で学び、同大学初の日本人学士となる。この時期に後にフランス首相となるクレマンソーとも親密になっている。卒業後は、フランス公使館に務め、当時最先端の欧米の外交や経済や軍事をさらに学んだのである。
1880年(31歳)に帰国した後の1882年、西園寺は伊藤博文が国会開設に向けて設置した参事院の議官補となり、欧州視察に随行する。そして翌年に帰国し、参事院議官となった。
つまり後に彼の師となる伊藤博文と欧州において、一年間をともにしたのであった。
1894年から1896年(45~47歳)、第二次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣。陸奥宗光外相が辞任した後は外務大臣も兼任する。
1900年(51歳)、第四次伊藤内閣にて療養中の伊藤博文に代わり、内閣総理大臣臨時代理を務める。同時に枢密院議長にも就任したのだ。
1903年(54歳)、伊藤博文が政友会総裁を辞任により政友界総裁となる。
そして、1906年から1908年(57~59歳)の時には、第一次西園寺内閣が成立し、内閣総理大臣を務める。
1909年(62歳)、師と仰いだ伊藤博文が韓国のハルビン駅を訪問中に暗殺されるのである。享年69歳であった。
欧州視察で一年間行動を共にし、伊藤が初代内閣総理大臣となってからは常にずっと裏方として、伊藤の政治を支えて来た西園寺にとっては強烈なショックであった!
1911年(62歳)、第二次西園寺内閣が成立する。しかし翌年、陸軍大臣・上原勇作との衝突が原因となり総辞職する。
1916年(67歳)、山県有朋の推薦により、元老(天皇の補佐)のひとりに任命される。
これは薩長出身の軍人経験者ではない、初めての公家出身の元老が誕生した瞬間であった!
1918年(69歳)、愛弟子の原敬が第19代内閣内務大臣に就任し、平民宰相誕生と称えられ国民の人気を得た。
1919年(70歳)、第一次世界大戦後のパリ講和会議に、首席全権として派遣される。
1921年(72歳)、国民的人気の宰相であった原敬が、東京駅で暗殺されるのである。享年66歳であった。
全幅の信頼により後を託した愛弟子原敬の暗殺による死は、恐らく師と仰いだ伊藤博文の時以上のショックを、西園寺に与えたことは想像に難くない!
1922年(73歳)、既に僅か三人となっていた元老の筆頭ともいえる長州閥の山県有朋が逝去。享年83歳であった。
1924年(75歳)、二人だけとなっていた元老の薩摩閥の松方正義が逝去。享年89歳であった。
ここから西園寺が、ただ一人だけの最後の元老となる!
以後亡くなる1940年までの大正末期から昭和前半のまさしく激動の16年間、西園寺は唯一の元老として日本の政治を支えたのである!
1936年(87歳)、原敬亡き後に何とかその後継者にと、西園寺が育てて来た近衛文麿を時期尚早ながら緊急登板させようとしにた。直前の二・二六事件後に辞職した岡田内閣の後継として近衛を推薦し、天皇による大命降下もあった。しかし、近衛自身が健康問題を理由に辞退したのだ。実際の理由は、軍部への恐怖と不満の双方であった。この時44歳の近衛には、命がけの政治への腹が座っていなかったのだ!
だからと言って、近衛を簡単に責めるのは酷であろう。直前の二・二六事件に加え、四年前の1932年には五・一五事件があり当時の日本は平和に慣れた今とはまったく異なる。恐ろしいほど血なまぐさい政治テロの渦中にあったのだ!
2022年の7月には、安倍晋三元首相の誠に悲しい暗殺事件があったが、1932年の政治的環境とはまったく異なる状況のもとで起きた暗殺事件である。
閑話休題、1932年の満州国建国以来、軍部は対外膨張政策をさらに押し進める。一方、日本の国際的な孤立は益々深まっていった。そんな最中に対中国政策に右往左往する日本の政党政治は、もはや行き詰まり完全に機能不全に陥っていたのであった!
1937年(88歳)、再度推薦した近衞は再び大命降下を受けこの度は拝命、6月4日に第1次近衛内閣を組織した。近衛の首相就任時の年齢は45歳7か月で、初代首相・伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さであった。
この時、西園寺にはやはり選択肢は近衛しかなかった。近衛も自身の複雑な思いは横に置き、大命を受け入れるしかなかったのである!
1940年(92歳)、日本が敗れる太平洋戦争の開戦一年前、腎臓の病から衰弱して11月24日に死没。享年92歳であった。
勿論、西園寺公望は1945年の日本の敗戦は見届けていない!