先月4月末の平日、大和の実家へ帰った折に久し振りに奈良へ行き「空海展」を見て来た。
近鉄奈良駅前からの歩道には、外国の観光客の皆さんがやはり大勢いらして8割くらいは海外の方だと思った次第である。
しかし、さすがに奈良国立博物館の中に入ると、日本人が9割は占めていた。
修理後初公開と聞いていた国宝の「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」も期待してジックリと拝観したが、悲しいかな正直サッパリ理解することが出来なかった。
ただし、空海直筆の「風信帖」には何か感じるものが強くあり、5回ばかり拝観を繰り返した次第である。
また、空海が愛弟子であり甥でもあった、亡き智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」(『性霊集』巻八)の、「哀(かな)しい哉(かな)、哀しい哉、哀(あわれ)が中の哀(あわれ)なり。悲しい哉、悲しい哉、悲しみが中の悲しみなり。」「哀(かな)しい哉(かな)、哀しい哉、復(また)哀しい哉。悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉。」との繰り返しには思わず胸が熱くなった。
そんな空海展を鑑賞した夜、空海繋がりの連想から、司馬遼太郎氏と井筒俊彦氏との対談「二十世紀末の闇と光」(十六の話 司馬遼太郎 著)を読み返してみた。
この対談において司馬遼太郎氏をして、「この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっている」と言わしめたのが、哲学者の井筒俊彦氏、50ヶ国語をあやつる語学の大天才という伝説もお持ちの方であった。
司馬遼太郎氏は、平安の巨人空海の思想と生涯、その時代風景を照射し、日本が生んだ人類普遍の天才の実像に迫る。構想十余年に及ぶ司馬文学の記念碑的大作「空海の風景」(KUKAI The Universal Scenes from His Life)の著者その人である。
その司馬氏が対談の中で、あらためて井筒氏に空海のことを尋ねておられるのだ。
そしてお話の中で井筒氏は、空海は間違いなく唐に留学した際にギリシャ哲学に出会っていると思う、そうでないと空海のような思想は生まれないと思うとハッキリ仰っているのだ。
さらに、司馬氏が井筒氏の考えておられる「東洋哲学の範囲」とはと改めて尋ねられた際、井筒氏は明確にギリシャより東で、必ずギリシャを含めますと回答された。つまり、井筒氏の構想されていた東洋とは、ギリシャを含めた中東のイスラム、ユダヤ教、インド、中国、そして日本なのであった。
この井筒氏の「必ずギリシャを含めます。」という箇所を読み返した時、自分自身までもが、「空海は唐でギリシャ哲学も学んでいたのだ。」と、まるで見て来たかのように思えた次第である。
対談の最後に、井筒氏は「二十世紀末の闇と光」の「闇と光」に関する考え方として、闇と光を二極化として捉えるのではなく、光が徐々に減少して行き、最後に光が見えなくなるのが闇というイメージで考えていると仰っておられた!