鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、聖徳太子を観音菩の化身・和国の教主と心より尊崇された!
聖徳太子は、親鸞聖人よりも600年前のお生まれである。余談ではあるが、聖徳太子が日本でお生まれになったのと同じ頃、イスラム教の創始者である預言者ムハンマド(マホメッド)も、現在イスラム教最大の聖地である「メッカ(Mecca)」(現在のサウジアラビアの都市)にて誕生された。
なお、聖徳太子を取り巻く最近の諸事情の一つは、歴史家たちから(厩戸皇子の存在はともかくも)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることが増え、学問的には疑問視されるようになっており、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という現場の声があることから、2020年度に小学校へ、2021年度に中学校へ導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された。
もっとも聖徳太子は、江戸時代の儒学者や国学者などからは、仏教をもたらしたことで日本を歪めたとされ、厳しく批判されたこともおありだ。
さらに、大日本帝国時代の第二次世界大戦期には「十七条憲法」のうち「和をもって尊しとなす」と「承詔必謹」すなわち「詔を承りては必ず謹め(みことのりをたまわりてはかならずつつしめ)」の部分が強調され、軍国主義の推奨から聖徳太子に関連する小冊子を文部省が配布することもあったという。
それが、米国に敗れた終戦後になるとガラリと変わって、「和」は平和と同一視されるようになり、平和時代の「民主憲法」の元祖とみられるようになった。
そんなこんなもすべて含め、きっと聖徳太子はニッコリとお笑いになっているに違いない!
一方、親鸞聖人がいかに聖徳太子を敬っておられたかは、制作された和讃の数からうかがい知ることができる。親鸞聖人の和讃は、「三帖和讃」(『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』)の他、聖徳太子に関する和讃が約200首ある。200首という数は、聖人の全和讃の3分の1以上を占めるダントツなのである。聖人が太子に関する和讃を、いかに多く作られたかが分かる。
和讃(わさん)とは、仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一つ。サンスクリット語を用いてほめたたえる「梵讃」、漢語を用いてほめたえる「漢讃」に対応するものである。
七五調の形式の句を連ねて作られたものが多く、これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。
そうなのだ、親鸞聖人は当時の言わばシンガーソングライターでもあられたのである!
親鸞聖人が八十三歳の時、六角堂建立、四天王寺建立や十七条憲法を讃仰された『皇太子聖徳奉讃』75首。また、聖人八十五歳の時、聖徳太子の伝記を讃仰された『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首。そして、聖人八十八歳の時、本願の教えをお勧めくださった太子を讃仰された『皇太子聖徳奉讃』11首(『正像末和讃』所収)など合計200首である。聖人がいかに聖徳太子を尊崇されていたか、あらためてよく分かる。
例えば『正像末和讃』第84首は、以下のような和讃である。
救世(くせ)観音(かんのん)大(だい)菩薩(ぼさつ)
聖徳(しようとく)皇(おう)と示現(じげん)して
多々(たた)のごとくすてずして
阿摩(あま)のごとくにそひたまふ
(『浄土真宗聖典 註釈版』615頁)
意訳は、以下のようになる。
救世観音は、聖徳太子としてこの世にそのお姿を現され、まるで父や母がわが子を思うように、見捨てることなくいつも付き添っていてくださる。
(『浄土真宗聖典 三帖和讃 現代語版』177頁)「救世観音大菩薩」とは、観世音菩薩のことで、阿弥陀仏の慈悲のはたらきを助ける菩薩とされ、世の人々の苦を救うのでこの名がある。日本では古来より聖徳太子信仰が盛んで、太子の本地は観世音菩薩であると一般に信じられていた。「多々(梵語タータの音写)」とは、父のことで、「阿摩(梵語アンバーの音写)」とは、母のこと。
聖徳太子は、阿弥陀仏の救いを助ける観音菩薩が人の姿を現した方であり、父や母のように私たちに寄り添ってくださった方であるとの表現である。
さらに聖徳太子といえば、十七条憲法というイメージがあるが、十七条憲法の十条で、このような言葉を仰っておられる。
「我必ず聖(せい)に非ず。彼必ず愚(ぐ)に非ず。共に是れ凡夫(ぼんぶ)ならくのみ。」
意訳は以下のようである。
「私がいつも聖者で正しい訳ではない。相手がいつも愚者で間違っている訳でもない。私も相手も、ともに凡夫、同じように誤った判断をする人間なのだ。」
一方、親鸞聖人は、歎異抄の中で人間とは、「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と宣言されている。
煩悩具足とは、煩悩の塊という意味である。
凡夫とは、ただの人、すなわち人間の事である。
どんな人間も煩悩具足、そこに違いなんかなく、みんな同じであると仰っているのだ!
法話 第56号 平成30年4月・平成30年5月発行 : 仏教文化研究所 – 岐阜聖徳学園大学|岐阜聖徳学園大学短期大学部 (shotoku.ac.jp)
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