三善晃さんの反戦三部作について、指揮者の山田和樹さんがこんなコメントをされている。
難しい三善作品の演奏には、ものすごい集中力が必要になりますが、同時にそれを演奏する快感が生まれるんです。そうして、お客さんは圧倒される。
ところが、演奏直後から、自分ははたして本当に演奏したんだろうかと思う。演奏したという実感があまりない。あんなにがんばったはずなのに?
こういう感覚が、三善晃先生と武満徹先生の違いです。
いい悪いではなくて、武満先生の音は、演奏したあとも心と身体に残る!
三善先生の音楽は、昇華されてしまう。揮発するというか。本当に演奏したのか、歌ったのか、実感がない!
だから、三善作品は虹のようなものだと思います!
あんなにきれいで、目の前にあるのに、つかめるものではない。それと同じように、記憶はあるのだけれど、実感としては、本当に演奏したのだろうかと思う。
これは、欧米の名曲にもあまりない経験です!
ひょっとしたら、メシアンなどがそうかもしれませんが、僕はまだあまり指揮していないので!
さらに三善晃の反戦三部作について、指揮者の山田和樹さんは、その「タイトルの由来」についてもコメントされていた。
それがとてもオモシロかったので、是非紹介したい。
「タイトルの由来」については、こんな風に話されていた!
反戦をテーマとする三部作の最初が、1972年の「レクイエム」です。この衝撃的な作品から7年後、1979年僕が生まれた年に「詩篇」が書かれ、さらに5年後の1984年「響紋」がつくられる。けっこう間があいている。
「レクイエム」や「詩篇」は、キリスト教の宗教音楽の曲名。なぜそれをつけたか?
作曲家が宗教曲をつくるときに、何らかのアンチテーゼがあったのではないかという考えはできないでしょうか?
バッハはなぜロ短調ミサを書いたか?
プロテスタントがカトリックの音楽を書く。そのとき、ロ短調という、もっとも忌み嫌われている、使ってはいけない調を使った。受難の調と言われます。
僕なりの解釈だと、宗教に何か問いかけを持った人がつくった宗教曲が残っていく。
モーツァルトは、教会が女性を差別することを批判した。
ベートーヴェンは、神がいるはずなのに、なぜ自分の耳は聞こえないのかと思ったでしょう。
メンデルスゾーンはユダヤ人なのにキリスト教に改宗している。
あとの時代はもっと顕著ですね。
ワーグナーは自分が教祖だくらいの勢いで、キリスト教はインドから来たのだと言っている。
リヒャルト・シュトラウスにいたっては、アルプス交響曲に最初は「アンチ・キリスト」というタイトルをつけようとした。
日本人である三善先生の曲も、同じような面があるのではないでしょうか。
海外の文化に触れることで、初めて日本人になれる部分がある。西洋のイディオムのなかでこそ、日本人てなんだと考える。
僕も、ずっと日本にいたら、この反戦三部作を指揮しようと思ったかどうか、わからない。14年前、海外に出なきゃダメだと思って、コンクールとかで海外に出た。そのときに、日本人の作品をやらなきゃダメだと思いました。
その前からぽつぽつとやってはいたけど、日本に帰って来るときには、なるべく可能なかぎり、日本人作品をやろうと。自分も、海外に出てそう思うようになった。
三善先生も1950年代にパリに留学して、大きなカルチャーショックを受けたのでしょう。日本人なのにクラシック音楽を習っているということの意味を、そこで考える。西洋の科学を利用して西洋と戦争して負けて、多くの人が死んだということの意味も。
三善先生は、日本から発信することにこだわられた。自分も、その遺志を少しは継がなければいけないと思っています。
東京都交響楽団 (tmso.or.jp) 指揮者山田和樹、三善晃の反戦三部作を語る 取材・文/山崎浩太郎
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