1941年12月8日の未明、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近い英国領マレーのコタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって、対英米への宣戦を布告したと報じた)。
真珠湾攻撃( Attack on Pearl Harbor)とは、日本時間1941年(昭和16年)12月8日午前3時20分(ハワイ時間12月7日午前7時50分)。第二次世界大戦において日本海軍が、米国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあった米国海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による奇襲攻撃である。
マレー沖海戦(Sinking of Prince of Wales and Repulse)とは、第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)12月10日にマレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機と英国海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘。日本海軍航空隊が英国東洋艦隊の最新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。
航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の事例である!
この1年前の1940年、米国では民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領が3選を果たしていた。
1940年の米国大統領選挙において、現職大統領であった民主党のルーズベルトはそれまでの慣例を破り3期目に出馬、それが大きく問題視されていた。
それでも彼は強行に出馬、選挙直前には相手の共和党候補者からルーズベルトが密かに国民を第二次世界大戦に引き込もうとしていると告発された。
ルーズベルトはこれに応えて、「アメリカの青少年をいかなる外国の戦争にも送り込むことはない!」と公約したのだ!
1914年から1918年にかけて米国からは遥か遠い欧州を主戦場とした第一次世界大戦において、米国にも約12万人もの戦死者が生じた。
その悲しみと一体何の為、誰の為の戦死だったのかとの思いが、米国民衆の心を戦争反対と平和への固い思いへと駆り立てることになっていた。
だからこそ、ルーズベルトはそんな公約をしなければならず、その公約をした彼は見事に大統領3選を実現させた。
しかし、ルーズベルトの本心は欧州を席巻するヒトラーのドイツに宣戦して英国などを救い、同時にアジアにおける日本の勢力をも削いでおくことであったと思われる。
彼にとって極めて重要なことは、米国民衆の戦争反対への固い思いを大転換させる「上手なプロパガンダ」を生み出すことであったはずだ!
参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』真珠湾攻撃、マレー沖海戦、1940年アメリカ合衆国大統領選挙
1092夜 『日本の失敗』 松本健一 − 松岡正剛の千夜千冊 (isis.ne.jp)