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孫中山こと孫文の夢!

孫文と梅屋庄吉の出会いは日清戦争最中の1895年、当時既に英国の植民地となっていた香港であった。
孫文は29歳、梅屋庄吉が27歳の時である。
梅屋庄吉は、意気投合した孫文と革命達成の盟約を結び、生涯を通し裏方として奔走した男である。

後に梅屋庄吉は日活の創業者のひとりにもなっている。

1895年当時、中国には欧米によるさらなる分割の危機が迫り、日本はいまだ江戸幕府が1858年に結んだ安政五ヵ国条約のままの不平等条約の下にあった。

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西洋列強に虐げられるアジアの現実を憂える二人は、日中の連帯によって列強に対抗し、アジア人のアジアを建設する「大亜細亜主義」の理想を語り合った。
そして、梅屋庄吉は「君は兵を挙げよ。われは財を挙げて支援する」と盟約、後に映画ビジネスで得た巨万の財を何の見返りも求めず孫文にひたすら提供し続けたのである。

梅屋庄吉の孫文に対する革命への資金援助額については、現在(2010年時点)の貨幣価値で1兆円に及ぶと言われる。

この二人が理想とした「大亜細亜主義」は残念なことに日露戦争、第1次大戦を経て、戦勝国日本の権益拡大を優先するスローガンへと歪められていく。しかし、梅屋庄吉は孫文亡き後も日中の戦争を回避しようと奔走し続けたのであった。

宋慶齢が愛用したピアノもあり!

1911年辛亥革命は成功したかに見えたが、反抗を続ける清朝旧勢力を抑える必要に迫られた孫文は、やむを得ず袁世凱に大総統の座を譲る。しかし、袁による独裁が始まると、第二革命を起こすも、敗れて1913年日本への亡命を余儀なくされた。この日本への亡命の時期に、孫文は運命の女性である26歳も若い宋慶齢と出会う。そして梅屋庄吉・トク夫妻の骨折りにより、1925年に二人はめでたく結婚し生涯の同志となるのである。

宋慶齢は、孫文の亡くなった後に中華人民共和国国家副主席を務め「中国の良心」とまで呼ばれた。1981年88歳で死去する約2週間前に名誉中国国家主席の称号を得ている。

<参照:長崎の歴史と旅の遊学サイトの旅する長崎学(たびなが)>

なお、中国革命を語るには欠かせない書物である「三十三年の夢」を書いた宮崎滔天と孫文の出会いは、孫文が日本へ亡命中の1897年横浜においてである。孫文が32歳で、宮崎滔天は27歳の時であった。その初面談において宮崎滔天は、中国革命について話せば話すほど、孫文の魅力に引きつけられていく。そして、英傑英雄を知るの諺のごとく「誠にこれ東亜の珍宝(ちんぽう)なり」と孫文に惚れ込んでしまう。
「三十三年の夢」は、当時の中国でもベストセラーになり、あの毛沢東も愛読して宮崎滔天に手紙まで送っているのだ。

<参照:西日本シティ銀行のふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」のNo.68 孫文と博多>

余談ながら、孫文は亡命先である日本滞在中には「中山 樵(なかやま きこり)」と名乗っていた。

1903年に革命家の章士釗が、宮崎滔天の「三十三年の夢」を中国語の「大革命家孫逸仙」に翻訳した際、孫文の姓と偽名「中山樵」を併用しており、「孫中山」と呼んだ。これが後に中国での孫文の通称となったのだ。

ただし、孫文自身は決して自分を「孫中山」とは呼ばず、すべての公文書や手紙に「孫文」の名で署名している!

毛沢東も愛読した宮崎滔天の「三十三年の夢」は、中国においては「大革命家孫逸仙」であったのだ!

<参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)孫文>

1168夜 『三十三年の夢』 宮崎滔天 − 松岡正剛の千夜千冊 (isis.ne.jp)https://1000ya.isis.ne.jp/1168.html

作成者: 鈍偶斎

還暦は過ぎたるも、心は少年の如くありたいと願っています!


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