今の時代、多くの人は朝目覚めた後にはスマホを手に取り、何か連絡はないか?何か変わったニュースはないか?とチェックしながら一日が始まる!
あなたが寝ていた間に起きた様々なことが、スマホを見ている皆にニュースとして一斉に提示されるのだ!
これはある人にとっては、情報の洪水による「拷問」のようなものかも知れない!
そんな人には、ジャンニ・ヴァッティモの「弱い思考」という考え方が、心のバランスを整えるヒントになるかも知れない!
大手を振ってさも真実であるかのように巷を闊歩する様々なフェイクニュースに対して、大いにあなたの免疫力が高まるように思えるのだ!
ジャンニ・ヴァッティモは、イタリアの哲学者であり、彼の思想は「弱い思考」として知られている。以下に、彼の主な視点を分かりやすくまとめてみた。
1. 弱い思考 (Weak Thought):
ヴァッティモは、現代の世界において、絶対的な真理や普遍的な価値を求める「強い思考」を批判する。
彼は「すべては解釈にほかならない」というニーチェの言葉に基づき、客観的真実を放棄し、多面的な概念を要求する立場を取るのだ。
そして彼は「弱い思考」を提唱し、多元性と差異性を積極的に受け入れるべきだと主張する。
2. 透明性への批判:
ヴァッティモは、ユルゲン・ハーバーマスの「無際限のコミュニケーション」による社会の透明性への希求を批判する。
彼は無際限なコミュニケーションが透明性をもたらさず、むしろ混迷をもたらすと考えているのだ。
3. 相対主義への警戒:
ヴァッティモは相対主義を否定しないが、無限の相対主義は現実の被投企性を忘れるものとして批判する。
彼は透明なコミュニケーションではなく、複数の解釈が織りなす「ヘテロトピア」を提案する。
ヴァッティモの思想は、ハイデッガーやデリダと近しいものがあり、現実の多元性と被投企性を重視しているのである。
ヘテロトピアとは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが提唱した概念で、異なる解釈や視点が交差する場所や空間を指す。この概念は、単一の絶対的な解釈や規範ではなく、多様性や相対性を受け入れる立場を表している。
ヘテロトピアは、現実の社会や文化において、異なる意味や価値が同居する場所や状況を指す。例えば、博物館や図書館、墓地、公園、病院などがヘテロトピアの一例である。これらの場所は、さまざまな人々やアイデアが交差し、共存する場として機能している。
ヘテロトピアは、私たちの日常生活においても存在し、異なる文化や信念が交錯する場所であると言える。この概念は、単一の視点や解釈にとらわれず、多様性を尊重する視点を持つ上で重要なのである。
要するに、ユートピアというのはこの世には絶対になく地上には存在しない場所なのに対して、ヘテロトピアは日常生活に連続していながら日常を忘れさせてしまう、ぜんぜん別の世界に運び去ってしまうような場所のことである!
現実の被投企性を忘れるとは、特定の視点や解釈に固執せず、多様性や相対性を受け入れることを意味する。ヴァッティモは、絶対的な真理や普遍的な価値を求める強い思考に対して、現実の多様性を認識し、解釈の豊かさを受け入れるべきだと主張している。この立場は、単一の視点や解釈にとらわれず、さまざまな視点や文化的背景を尊重する視点を持つ上で重要である。
例えば、トランプさんを支持する人も支持しない人も、プーチンさんやネタニヤフさんを支持する人も支持しない人も、時々はこのような「弱い思考」を体験することで心のバランスを整えることをお薦めしたい!
ハイデガーは、人間が世界を構成する純粋意識ではなく、自分が選んだり、造ったりしたわけでもない世界に否応なく投げ込まれてしまっている存在であると指摘した。
人間は否応なしにこの世界を生きなければならない!
このすべての人間に共通した状態をハイデガーは「被投性」と名づけた。
そして、被投性は、気分(とりわけ、不安)を通して自覚される。
「やがて死ぬ自分にとって、生きることにどんな意味があるのか?」
といった不安を抱えた問いが、誰にも忍び寄る。
このとき、われわれは「どうして自分はここに存在するのか?」という
不安から、自分がこの世界に投げ込まれており、ここから決して逃れられないこと(被投性)を自覚せざるをえない。
いったん、被投性を自覚すると、ヒトは、いつか自分が死によって、この世界から強制的に退場させられる事に気がつく。
自分の死を鋭く意識することをハイデガーは、死への「先駆的覚悟性」と呼んだ。
この死の自覚からさらに自分の生の意味をもう一度捉えなおし、再構成する試みが始まる。この試みは、投企と呼ばれる。
被投企性(とうき)は、マルティン・ハイデッガーによって提唱された哲学の概念である。
簡単に言えば昔からの知恵にある、「メメント・モリ!」である!
この概念は、また次のような意味を持つとも言える。
被投という形で生を受けた人間は、常に自己の可能性に向かって存在しているとされる。
つまり、私たちは現在から未来に向かって進む存在であり、自分自身を未来に向けて投げかけていくことが「投企」であると言える。
この考え方は、自己の存在を発見し、創造するプロセスを意味している。
我々、人間にこれが可能なのは、意味を理解することができるからであり、物事の知覚や意識が構成されていくと考えられている。
被投企性は、現実の多様性を認識し、解釈の豊かさを受け入れる視点を持つ上で重要な概念なのである。
No way ブッダの十二支縁起は最新の脳科学と一致していた!