昨日7月12日、タレントのryuchell(りゅうちぇる)さん27歳が、突然自死により亡くなったとのニュースがあった。さらには、何と5歳になる息子さんの誕生日の翌日のことであったという悲しい事実まで知ったのである。誠に切ない!
そして直ぐに頭に浮かんで来たのが、3年前の2020年7月18日に30歳で亡くなった、三浦春馬さんのことである。
そう言えば、あの当時も今年と同じく「令和2年7月の豪雨」と呼ばれ、九州などで水害による被害が大きく犠牲者も多くあった年でもあった。
個人的には、このお二人には相共通するイメージを抱いていた。それは一言で言うと、「純粋性」ということである。
それも、子ども心にも通じる一途なホンマに曇りのない美しいキラキラした「純粋性」であった!
故に、何の面識もある訳ではないのだが、ただ人生の先輩の一視聴者として愛おしい思いを持って、このお二人を画面越しに拝見していたのである。
さらには、このキラキラした「純粋性」が年月を経て、どのような花を咲かせてくれるのかということは、想像するだけでもワクワクする楽しい思いを抱いていたのである。
訃報に接しての我が心の切ない思いは、何とモッタイナイことを!という気持ちがまずは一番に強いのである。
そんなこともあって、本当にご本人たちに何が起きたのかは知る由もないことではあるが、切なき思いの我が胸にふと同じく浮かんで来るのは、今は昔の新入社員の時代に出会った、昭和の時代に「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門さんの言葉であった。
昭和の時代に「電力の鬼」と呼ばれた、松永安左エ門とは!
1875年(明治8年)に生まれ、96歳で亡くなられる1971年(昭和46年)まで、明治の後半から戦後の大混乱期の昭和を含めて、長く日本の電力業界において活躍した大実業家である。
その松永安左エ門さんが仰った言葉に、『実業人が実業人として完成する為には、三つの段階を通らぬとダメだ。第一は「長い闘病生活」、第二は「長い浪人生活」、第三は「長い投獄生活」である。このうちの一つくらいは通らないと、実業人のはしくれにもならない!』という新入社員の時代に出会い、以後忘れることが出来なくなった言葉である。
実に強烈な言葉である、そして「実業人」の箇所は「政治家」でも「芸能人」でも何であれすべてが当てはまるようだと、当時我が胆に銘じたのである。
この「長い闘病生活」「長い浪人生活」「長い投獄生活」の3つの共通点は、「自分という人間と、自らが徹底的に向き合う時間を長く持つこと」ということに尽きる!
人の人生とは、その時々の自分の心と向き合うその深さにより、大いに変化して行くものなのである!
今や世界のスーパースターである大谷翔平選手も尊敬している、あの中村天風先生が仰る、まさに「こころ一つの置き所」である!
ちょっとしたことで叱られたり失敗をして考えるのは、「反省」である。重度の失敗をして、ひどく落ち込むような結果の末に辿り着くのが「猛省」である。
さらに、そういう事後的な発想の態度ではなく、自らの意志をもって自分の心と対話し、事前にあっても常日頃に自分の心を整えておく態度が、「内省」やさらにもっと深い「内観」と言われるものである。
松永安左エ門の言葉は、この「内省」やさらに深い「内観」に少しでも辿り着くように日々修行せよという「大いなる激励」であるように思えるのである!
松永安左エ門さんと言えば、その先見性は留まることを知らずで、1956年(昭和31年)には日本の政・財・学・官界のトップで構成する「産業計画会議」を自らが主催し、16のレコメンデーション(勧告)を発表して、議員や大臣、関係者に大いに働きかけたのである。
何と1956年(昭和31年)にすでに、「専売公社の廃止」、「国鉄の民営化」、「高速道路の整備」などを掲げていた、日本の近代化を推し進めるプロジェクトであって、その大部分が後世には実現するのである。
あわせて、「電力設備の近代化」と「電源開発」も推し進めた。水力に頼っていた電源が「火力へシフト」すると予測し、燃料も「石炭から石油」へと設備を拡充していった。さらに、「原子力」へも目を向け、1966年(昭和41年)には研究所内に事務局を置く「フェルミ炉委員会」を発足。技術者などを次々とアメリカへ派遣した。日本の原子力基盤を築いた多くは、このときの研修生である。
その後も、1969年(昭和44年)には、電気事業研究の国際的協力と情報交換を目的とするIERE(電気事業研究国際協力機構)を発足させた。日本の将来にわたる電気事業の基盤づくりすべてが安左エ門の手によって築かれていったのである。