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鄧小平と二度の天安門事件!

世界的に有名なよく知られた事件ではあるが、中国においては特に1989年以降に生まれた若い人々に、知らされていない天安門事件!

今も中国共産党政府が、中国国内に向けては隠しに隠しまくる事件とは、1989年6月4日の鄧小平の二度目の天安門事件の方である!

ここまで事実を隠さねばならない程、きっと恐らく中国共産党にとっては「弱み」となった事件なのであろう!

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まず初めに鄧小平と最初の天安門事件とは、1976年4月5日天安門広場において、同年1月8日に死去した周恩来首相の追悼の為に捧げられた花輪が、北京市当局により撤去されたことに対し、激昂した民衆が警備隊と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件である。

当時の最高権力者であった毛沢東は、NO2の周恩来への不信感を強め、対抗する「文革四人組」を用いて牽制したり、周恩来と同じように実務にたけた官僚の鄧小平を復権させて、周恩来の代わりに据えようとするなど、NO1とNO2の対立が深まっていたのだ。

この最初の天安門事件においては、二度目の政権中枢からの追放になってしまう鄧小平の役割は、まだホンの脇役の一人に過ぎなかった!

余談ではあるが、日本と中国が国交を正常化させたのが、この4年前の1972年の9月29日、当時の田中角栄総理大臣と周恩来首相が日中共同声明に調印し、両国民の記憶に鮮明に残る熱烈な握手を交わした時であった。

一方、米国のニクソン大統領の初の訪中は、その約半年前の1972年2月の話である。その後1973年1月にはパリ和平協定が調印され、べトナム戦争も終結。米中双方は、協力して共通の敵であるソ連に対抗するという戦略構想を、さらに一歩確実なものへと進み出したのだ!

勿論1949年の中華人民共和国の建国時から10年ばかりは、支援を受けたソ連との熱烈な蜜月の時代であった。しかし、時が経つにつれ、米国をはじめとする西側諸国との「都合の良い協調」にメリットが多いソ連と、「協調」にはまだ何のメリットも望めない中国には、大きな路線の違いが生じて来たのである。その結果、毛沢東とフルシチョフの関係は険悪なものとなり。やがては、敵対する関係になってしまったのである!

閑話休題、最初の天安門事件に至る伏線とは、1974年9月30日の建国25周年記念式典で周恩来首相が、文革で失脚した人々を特別に呼び寄せ来場者から大絶賛された。このことは毛沢東にとって格好の周恩来への攻撃材料となるはずであったが、用心深い周恩来は、乾杯の際にあらかじめ毛沢東を賛美する言葉を述べて非難の矛先をサラリとかわした!

これにはさすがの毛沢東も、「周のことをあきらめてないが、今は時期が悪い。自覚の薄い国民は周の事を知らぬ。今やると混乱を招く」と述べて周恩来への攻撃を止めざるを得なかった。

「周に反すれば民は反す。」といわれるほど、周恩来への大衆の人気は極めて高かったのだ!

ゆえに、1976年1月の周恩来の死は、中国国内に大きな悲しみをひきおこし、周恩来を評価し「文革四人組」を攻撃する壁新聞が出回り始めるなど文革全盛期にはあり得なかった事態が起こっていた。毛沢東夫人である江青をはじめとする「文革四人組」はこうした空気に大いに危機感を募らせていた。

そして、周恩来が亡くなったと同じ年の1976年9月9日にはなんと毛沢東本人も死去、後ろ盾を失くした江青たち「文革四人組」の命運はついに尽きたのであった。

1976年とは、中国国民と中国共産党にとって、奇しくもNO1とNO2の双方を失った特別な一年なのであった!

そこからはよく知られているように、1977年7月に3度目の復権を果たす鄧小平の、「鄧小平の時代」が始まるのである!

さて、ここからが肝心な鄧小平と二度目の天安門事件である!

鄧小平にとっての二度目の天安門事件とは、1989年6月4日(日曜日)に天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、中国人民軍が武力行使し、多数の死傷者を出した事件なのである。

一度目の天安門事件では脇役に過ぎなかった鄧小平であるが、それから13年後の二度目の天安門事件では、まさにその主役を演じたのだ!

また余談ながら、当時の世界の情勢を振り返ると、世界中で民主化運動が激化し、1989年11月9日にはついに東西ドイツのベルリンの壁が崩壊した!

さらに、東欧の民主化が一気に進むと同時に、この動きはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立にまで波及していく。

なお、1989年とは、日本では奇しくも「昭和という時代の終焉」と「東西冷戦体制の崩壊」が重なった年でもあった!

また、国民的歌手で「歌謡界の女王」であった「美空ひばり」が52歳という若さで亡くなった年であったのだ!

閑話休題、中国の話の戻ると1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、事実上の最高権力者こそは鄧小平が続けていたが、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進。胡耀邦は国民から「開明の指導者」と謳われ、政治改革への期待や支持が高まったのである。

これに対して、鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した!

そして、胡耀邦は1987年1月16日の政治局拡大会議で、鄧小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚となるのであった!

その後は、胡耀邦の後任として、改革派ながらも穏健派と目された趙紫陽総理が総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出されたのだ。

一方、胡耀邦は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中、心筋梗塞で倒れ4月15日に死去した。

翌4月16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡耀邦の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。

これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌4月18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行ったのち、民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。

翌4月19日には、北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった。

学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めたころからであった。

西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生した。

そのような最中、趙紫陽は腹心の部下である田紀雲らの忠告にもかかわらず、「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り4月25日に行うことを決め、李鵬首相に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。

しかし、出国してすぐの4月25日、李鵬首相や北京市党委書記、北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、鄧小平の談話を下地にニュース番組で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。

そこには北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。

趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬首相と対立したが、5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。

五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。

鄧小平や保守派の長老も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まったハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を破綻させた!

ソ連のゴルバチョフ書記長が訪中する5月15日以前に、活動を収束させることで鄧小平、楊尚昆(国家主席)、趙紫陽の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したためハンガーストライキの終結は困難となった。

この頃中国全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せて英国の植民地であった香港、日本や米国などの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。

このような状況下、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、ソ連国内の改革を「ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)」で進めていたゴルバチョフ書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問したのである!

中国共産党は、ゴルバチョフと鄧小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。

さらにゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日、人民大会堂での会見で記者を前に、「鄧小平同志は1978年の第11期三中全会より国内外が認める我々の党の指導者だ。第十三回党大会における彼の要求に基づき、中央委員会、政治局と政治局常務委員会からは退いたが、我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。1つ秘密を話そう。第13期一中全会では正式な決定を行っている。これは公布していないが重要な決定だ。 つまり、我々は最も重要な問題において彼の指導を必要とするというものだ。」と「最終決定権が鄧小平にある!」ことをハッキリと明かしてしまったのである。

外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったが、結果的には中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった。

その当事者であるゴルバチョフ本人は、当初の予定通り5月17日に帰国する。

その5月17日の午後に改めて、党長老で事実上の最高権力者である鄧小平中軍委主席に加え陽昆陽国家主席を含めた会議が鄧小平の自宅で行われたところ、戒厳令の布告について趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が中立の意見を表明し、5人の政治局常務委員会は割れた!

政治局常務委員ではない楊尚昆が賛成を表明した後、政治局常務委員会による投票をすることなく、鄧小平は以下のように発言し戒厳令の布告を決定したのだ!

「事態の進展を見ればわかるように、4月26日付社説の判断は正しかった。学生デモが未だ沈静化しない原因は党内にある。 すなわち、趙紫陽が5月4日にアジア開発銀行の総会で行った演説が原因なのだ。今ここで後退する姿勢を示せば、事態は急激に悪化し、統制は完全に失われる。よって、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」

このように、鄧小平は最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。英国の機密文書によると「200人の死が中国に20年の安定をもたらすだろう!」と鄧小平が語ったと記録されている

そのような経緯を経て、それから18日後の6月4日の日曜日に二度目の天安門事件は起きた!

中国共産党の公式発表では、「動乱で319人が死亡(民間人と軍、警察の合計)」となっているが、この事件による死傷者については、上記の中国共産党による報道規制により、客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり、死者数は定かではない!

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参照:六四天安門事件 – Wikipedia

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作成者: 鈍偶斎

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