日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍がバルト海から遥か遠くの極東へ送った第2・第3太平洋艦隊との間で日本海で行われた歴史的な大海戦があった。
これを我が日本では、日本海海戦と呼んでいる!
日露戦争は、1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月まで、約1年半に亘り行われた。
突然現在の話となって恐縮ながら、2022年2月には、現在のロシアによるウクライナ侵攻が開始され、既に1年以上が経っている。願わくば日露戦争の約1年半よりも短い期間での早期停戦を心より望みたいものである!
話をもとに戻すと、日本海海戦は対馬東方沖海域で行われた。我が日本以外の国々では、この海戦を対馬沖海戦と呼ぶ(ロシア語「Цусимское сражение」、英語「Battle of Tsushima」)。
また日本ではこの海戦で戦ったロシア艦隊を「バルチック艦隊」と呼ぶ事が通例となっている。
この海戦は日露戦争における最大規模の艦隊決戦であり、その結果、日本の連合艦隊は海戦史上稀に見る勝利を収め、バルチック艦隊の艦艇のほぼ全てを損失させながらも、連合艦隊側の被害は小艦艇数隻のみの喪失に留めた!
具体的には、こんな具合である!
戦力は、我が日本の連合艦隊が、戦艦4隻、巡洋艦23隻、その他108隻。
ロシアのバルチック艦隊は、戦艦8隻、海防戦艦3隻、巡洋艦9隻、その他38隻。
損害は、連合艦隊が水雷艇3隻沈没のみ、戦死者117名、戦傷者583名。
バルチック艦隊は戦艦と巡洋艦が21隻沈没、戦死者約5000名、捕虜6106名。
この海戦史上稀に見る勝利を収めた折の、我が連合艦隊の旗艦が、現在も神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている戦艦三笠である!
三笠の名の由来は、有名な阿倍仲麻呂の和歌「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」にある、三笠の山、奈良県の春日山のことである。
日露戦争が終わる直前に、「大日本帝國海軍艦艇の命名基準」が1905年(明治38年)8月1日に制定された。
この「大日本帝國海軍艦艇の命名基準」は、日本海海戦の一月前に日本帝国海軍の父と呼ばれる時の海軍大臣、山本権兵衛が明治天皇に上奏し裁可されたものである!
これ以降、戦艦三笠のように戦艦名に関しては、山の名前は使用しなくなるのである!
この「大日本帝國海軍艦艇の命名基準」という、ネーミング・システムが実に凄かった!
ネーミングの第一人者と呼ばれる、コピーライターの岩永嘉弘さんは、「大日本帝國海軍艦艇の命名基準」についてこのように解説されている。
戦艦には旧国名が使用された、戦艦大和、戦艦武蔵などである!
戦艦より装甲が劣る巡洋戦艦は巡洋艦とみなされ、第一巡洋戦艦(重巡)には山の名前が使用された、巡洋艦鳥海、巡洋艦麻耶などである!
第二巡洋艦(軽巡)には川の名が使用された、巡洋艦天竜や巡洋艦最上などである!
さらに軽装備の砲艦には、名所旧跡の名前が使用された、砲艦明石、砲艦橋立などである!
なお、大型艦船を護衛し、近距離からの強力な攻撃からの防御を提供することを目的とした、小型で高速、機動性、耐久性に優れた水雷艇が駆逐艦である。
この駆逐艦のネーミングは感動的ですらある!
その形式により、雪の名前である、駆逐艦初雪や駆逐艦深雪など。雲の名前である、駆逐艦東雲(しののめ)や駆逐艦白雪など。波の名前である、駆逐艦浦波や駆逐艦磯波など。また、真珠湾攻撃からミッドウェー海戦やキスカ撤退作戦にも参加した駆逐艦霞(かすみ)などがあった。
要するに、駆逐艦には天象、気象、海洋、季節に関係のある名、および植物名がつけられたのだ!
コピーライターの岩永嘉弘さんによると、このネーミングが艦艇たちのコミニュケーションを即座に可能にし、作戦の具体化を表現化した!
驚くべきネーミング・システムという評価になるのである!