若者のテレビ離れが日常化した現在、昔みんなが同じようにテレビやラジオで流行歌に触れた時代は過去のものとなった。
昭和であればテレビを通して、老若男女がほぼ等しく「流行(はや)り唄」に接していたのだが、そんなことは令和の今はまずない。
その結果、誰もがツイ口ずさむような、みんなの「流行り唄」は無くなってしまったのだ!
自分でも笑ってしまうのは、現在どんな唄が流行っているのかを、ネットで検索して初めて知るという今の自分自身がいる可笑しさである!
令和の若者たちの間で流行っている唄も、我々年寄りには日常ではほとんど伝わって来ないのが今の時代なのだ。
今や、唄は主に個人個人で聴く、一人占めする一人ボッチの世界の唄となったのである!
もっとも、好きな音楽を好きなように一人で聴くことぐらい、昔から出来きたことではある。勿論、昔はネット配信などなかったから、手間暇はかかったけれど。
そこでフト思ったのが、ダイバーシティのことである!
令和の若者が個人個人で浸る唄の世界とは、みんなで同じ唄を聴いた昭和とは雲泥の差がある。これも、昭和にはあった一つのダイバーシティの喪失ではなかろうかと?
そう思うと、現代の電車の中でよく見る光景だが、ほとんどの人がスマホを手にして何かしていることをよく見かける。
これは確かに個人個人の頭の中では、皆さんそれぞれに違う作業をしていることは間違いないのだが、身体的行動として捉えると、結果的にほとんど同じような行動がなされているのである。
電車の中の身体的行動における、ダイバーシティの喪失と言えるのかも知れない?
そう考えると、世の中のダイバーシティというのは、ある方向では進んでいても、別の方向では逆に退化しているという気がするのだ。
そこでまた別の話が頭に浮かんで来た。確か「進化」について、どなたか忘れたがあるエライ先生が述べていた話である。
「進化という、ある特定の能力を伸ばすことは、一方では同時にある能力を手放すことでもある!」
そうかー、ダイバーシティの進化もそんなふうに考えれば、今の現状がシックリ腑に落ちるのである!
しかし、同時に思うことは、人間がどれほど進化しようと、決して手放してはならない能力がある。そのことだけは間違いないと、改めて強く思うのである!
自分の唄について振り返ると、昔は「流行り唄」を口ずさむことはあった。しかし、カラオケでマジに唄うのは「懐メロ」だけであった!
「懐メロ」をあなどることなかれ、これらこそ何十年なかには百年以上もの間、世の中の進化に耐え難きを耐え、忍び難きを忍びながら残って来た極めて適応能力の高い唄なのである!
これからもマジで唄うのは、「懐メロ」に徹することにする!
そう、約40年前の松原みきのデビュー曲「真夜中のドア~stay with me」が最近欧米やインドやフィリピンで大ヒットしているという話も聞こえて来る。今やそんな時代でもあるのだ!