「倜儻不羈(てきとうふき)」という言葉は、長編時代小説『竜馬がゆく』の縁から、名誉高知県民でもあった司馬遼太郎が、揮毫を頼まれた際に好んで使った言葉である。
お気に入りの言葉であるが、恥ずかしながら最初は「不」だけは分かるが、他の三文字の意味が分からず。「何じゃこりゃ?」の状態であった。
同志社大学の創始者である新島襄は、遺言の一節に「倜儻不羈」を用いており、「同志社ニ於てハ倜儻不羈なる書生ヲ圧束せす務めて其の本性ニ従ひ之ヲ順導す可きし以て天下の人物ヲ養成す可き事」とある。
1990年に同志社大学から「新島襄永眠百周年行事」の講演を依頼された際、司馬遼太郎は「倜儻不羈」の意味を次のように解説したそうである。
『「倜儻」というのは、自分の考えをしっかり持つこと、人がああいうからといってそこへ行かないこと、自分の考えを明晰に持つという意味です。
「不羈」というのは、馬の手綱がつかない人、放れ駒のような人のことをいいます。
人に御せられない人、そして明快な、いつも明晰な考えを持っている人、それが 「倜儻不羈」であります。』
90Kouenkai.pdf (doshisha.ac.jp)新島 襄先生永眠百周年記念講演会「私の考える日本文化」司馬 遼太郎
さらには、司馬遼太郎作品『この国のかたち(一) 』の中の「17土佐の場合」では、次のように述べている。
「倜儻不羈(てきとうふき)」という漢語は、まことに異様な字面が四個もならんでいてなじみにくい。しかし江戸期の知識人のあいだでは、ごくふつうのことばだった。ある種の独創家、独志の人、あるいは独立性のつよい奇骨といった人格をさす。
倜は “すぐれていて、拘束されないさま” で、儻は “志が大きくてぬきんでている” こと、羈は “馬を制御するたづな” 、不羈は “拘束されない” ということ。漢語としては紀元前から存在した。
(もっとも、漢字にはときに同語反対義(アンビバレンス)があって、倜はスグレルという意味と、正反対のオロカという意味とがある。倜儻不羈の場合、世渡りからみればおろかともいえる)。
早稲田大学をおこした大隈重信が、自分の出身藩である肥前佐賀藩(薩長土肥の肥)のガリ勉主義の藩風を『大隈候(伯)昔日譚』のなかでののしっている。
「一藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに倜儻不羈の気象を亡失せしめたり」
大隈がそのようになげいたように、肥は、全藩の師弟を組織して一種類の学制の中につめこみ、定期的に試験を施して、落第すれば先祖代々の家禄まで削るという、恐怖をもって一藩をかりたてた。しかも思想は朱子学というドグマで統一されていた。
このおかげで多くの秀才を出すことになったが、倜儻不羈の気象を亡失させた、と大隈はなげくのである。かれが後年、早稲田の地に一私学をおこした動機は、この批判のなかにもある。
この点、土(土佐)は倜儻不羈の一手販売のような土地だった。
元来、土佐人には風土的精神として拘束を好まないところがあった(むろん、すべての土佐人がそうであったというのではない)。
確か二十年ばかり前、エッセイ集「司馬遼太郎の考えたこと」に、司馬遼太郎が京都のお茶屋のおかみから揮毫を頼まれた折の話の中で、初めて「倜儻不羈」という言葉に出会いひとめぼれをした。それ以来毎年使う日記手帳の最初のページには必ず自ら「揮毫」する言葉となっている。(笑)