知る人ぞしる戦後歌壇の異才・寺山修司の昭和の代表作である!
令和の今「マッチ」という言葉に対する人々の感覚が、昭和の時代からはほど遠くなっていることが少し残念である。
しかし、今も実際に戦っているウクライナやロシアには、きっとこの歌のような切実な思いに悩む人々が数多いることは間違いないであろう!
プーチン大統領に是非プレゼントしたくなる歌である!
たった三十一文字の中に、人それぞれに浮かび上がってくるドラマがある。この歌はとりわけ、人それぞれに各人各様の具体的なイメージを見事に膨らませてくれる。
まるで自分がこの歌の主人公になった気にさせてくれる!
昨年二月にロシアがウクライナに侵攻し、取り繕いながらも何とか77年間続いて来た「おおよそ世界は平和な時代」は終わりを告げた。
そして、我国周辺では中国の台湾問題が日々緊張を増している。
日本の防衛費も、戦後78年間ずっと縛り続けて来たGDPの1%から2%へと倍増させる方向にある、今こそ平和な日本においてもあらためて読み直し味合うべき歌であろう!
寺山修司が「身捨つるほどの祖国」と詠んだ背景には、大日本帝国のためと信じて戦い死んでいった父の姿があるという。
終戦直後、寺山は満10歳という少年であった。
しかし、早熟であった少年・寺山は「祖国とはなんなのか」「父の死の意味とは」「自分のあり方とは」と様々な自問自答が脳裏に満ち溢れていたことであろう。
ただ、もう一方で、寺山自身がこの歌の創作過程について触れている内容を読むとまた違った見解もできるという。
寺山の自伝抄『消しゴム』によると、横浜のチャイナタウンで知り合った42歳の中国人・李と並んで眺めた光景がこの歌のきっかけだというのだ。
寺山は当時23歳、三年間の入院生活を追え、生活のため電話番やポーカーディーラーの仕事についていた。二人は仕事の合間に横浜の海を見に行くのだが、その晩は霧が深くお互い黙って「べつべつの海」を眺めていたと述べ、その時に作った歌だと述べている。
「わたし」だけでなく、国籍が異なるもう一人の登場人物によって、「身を捨つるほどの祖国」にはこれからの日本の舵取りへの憂いだけでなく、中国に残してきた42歳の中国人・李の家族への心配も含まれるようになる。
ただし、寺山は自身の過去でさえも虚構化することから、この話も創作である可能性は否めない。