人は手を合わせ祈る、人はなぜ祈り、祈りは何をもたらすのか?
そんなことを思った時、自分のことを振り返れば、正月の初詣でこそキチンと手を合わせるが、その他はもっぱら困った時の神頼みである。
しかし今年はロシアのウクライナ侵攻による戦争が始まったり、安倍元首相の暗殺事件、車の中に幼児を置き忘れての死亡事故、幼児の虐待死など、思わず心の中で祈ることしか出来ないことがたくさんあった。
今年も残り僅か半月ばかりとなり、改めて祈りのことを考えネットを検索してみると、そんな祈りを研究されている先生方がおられることを初めて知った!
先生方とは、京都府立医科大学名誉教授の棚次正和先生と筑波大学名誉教授の村上和雄先生ご両人のことである。
その先生方がナントこんなふうに仰っているのだ!
祈りは、自らの願望や懇願のためだけにあるのではない!
感謝や愛、思いやり、従順、誠意、畏敬のためにも、人は祈ることができる!
祈ることの効果の一つは、祈る人の心に新しい良いものを芽生えさせてそれを培うことにある!
例えば、希望の祈りとは、その希望の芽を祈りとともにダンダンと大きく育てることである!
個人の祈りや願いが天に通じるとき、心は落ち着き、心の中に中心軸ができ、ブレない生き方ができるようになる!
このことを人間は太古から直感していたのであろう!
鳥が大空を舞い、魚が水の中を泳ぐように、人は自然な本能として太古から祈って来たのである!
人は無力だから祈るのではなく、祈りには思いもよらない力があるから祈るのである!
祈りには空間を超えた「現実的な効力がある」ことが、現在科学的にいくつも検証されている!
日本語の「祈り」の語源解釈に共通しているのが、「いのり」の語の構成は「い+のり」であるということである。
「い」は神聖なものを指し、「のり」は法(のり)や告(のり)と同根であり、みだりに口にすべきではないことばを口に出す、という意味がある。
さらに「い」は呼吸(いき)や生命(いのち)のことをも指している。これに着目すると、祈りは息や神聖なものを宣言することを指している。
つまり生命の宣言である!
生命の根源の響きをことばに乗せて響かせる。生命を根源から生きることという意味である!
生きるということの具体的な姿は、生命の根源から息をするということ、つまりイキイキと生きることが「いのり」の意味だ!
この解釈から考えると、人間は弱い存在だから祈るということではないとわかる。鳥が大空を舞い、魚が水の中を泳ぐというのは、自然な本能として普通に行っていることだ。
人間の場合も、自然本性として祈るのである!
祈りは何をもたらすのか?
祈りがもたらすものについては次の三つの要素がある。
その一つ目が霊性の開顕。
霊性とはスピリチュアリティともいわれる。仏教では仏性になるが、私たちは仏性をもともと持っていることを自覚するということだ。
私たちは生命の根源から放たれた一筋の光のようなものである。光であることを自覚するということ。これは祈りの実践をとおしてこそ、この自覚が深まっていく。真言宗の場合、大日如来と自分が一体であるという自覚だ。大日如来という根源的な仏が自分のど真ん中に鎮座している。自己と超越者がひとつに結ばれることである。
二つ目は他者との絆を再認識するということ。
人間はそれぞれ個に分かれている。肉体によって個が別れているようにみえるのでである。だから生きていると孤独を感じたり孤立感を深めたりさまざまな問題が生じる。ところが、祈るたびに自分と他者が心では繋がっているということが、再認識される。私も、他者も根源から放たれた同じ光だと理解できる。だから他者との争いは意味をなさない。するとこの世界は平和になる。自己と他者がつながる。
三つ目は自然との共生。
自然界の事物はみんな仏性を持っている。ばらばらに分かれて見えているけれど、全てはひとつの生命につながっているということだ。
自然との共生に気がつくことができる。このような話をすると、単にあなたがそう思っているだけじゃないかともいわれる。仏道の修行を積んでいる方はすぐわかる話だが、そうでない方はピンとこない。そこで、祈りが持っている治癒効果を科学的に実験した研究があるので、それをご紹介したい。
祈りの治癒効果に関する科学的研究とは?
我が日本では祈りや瞑想に関する科学的研究は、残念ながら大変遅れている!
その一方、日本人の精神性には相当に深いものがあるといえる!
なぜ日本の科学者達がそれを研究しないのか誠に不思議だ!
欧米ではこの種の研究はホントにたくさん行われて来たのだ!
サンフランシスコ総合病院の心臓病専門医のランドルフ・バードは、心臓病集中病棟の患者約400名を、祈られるA群と祈られないB群にランダムに分け、祈る人と祈らない人がお互いにわからないようにして、全米から集めた祈り手による祈りの治癒効果を調べる実験を行った。1998年に報告された結果では、抗生物質を必要としたのは、A群は3名、B群は16名。気管内挿管を必要としたのは、A群は0名、B群は12名であった。
このことから、祈りには治癒効果があり、その効果は空間的な距離が障害にはならないことがわかったのである!
もしも祈りのエネルギーが物理的なエネルギーだとしたら距離の二乗に反比例するが、そうではないのだ。つまり、心とは非局在的なものなのだ!
心はどこにあるかというと、頭や心臓、お腹などの体の特定の部位にあるのではない!
いわば、心は体の枠をはみ出ているのだ!
さらに嬉しいことには、祈りは「祈る人」と「祈られる人」その双方共に良い効果をもたらすことも分かって来ている!
また、アメリカの民間研究機関スピンドリフトでは、1970年代から祈りが与える影響力を研究し、ライ麦や大豆の種子に対して祈り、祈った種子とそうでないものを比べた。すると祈ったものの方が発芽率が高かった。またストレスに対する影響も調べたところ、塩水にひたしてストレスを加えた方が発芽率が高かった。このような実験を積み重ねて概念的全体の法則が分かった。これは個別に祈った影響がおなじ概念で括られる集合全体にいき渡るということだ。そして、具体的に何かをイメージして祈る目標指向の祈りと、目標をイメージせずに大いなるものに任せるように祈る非目標指向の祈りの効果にも差があった。非目標指向の方が良い結果が出たのだ。
つまり、米国の「スピンドリフト」という研究グループの実験によって、下記の3つの重要な法則が統計的に検証された。
1. 祈りには量的効果がある(多くの人が祈るとより効果が大きくなる)
2. 方向性を設定せぬ祈りに、質的な効果が見られる(「こうであってほしい」と祈るより、ただ最善を祈ることで、最善の方向への調整が促進される)
3. 困難な状況への祈りは、効果が高い
アメリカ国立衛生研究所に在籍していた医学研究者であるラリー・ドッシーは、今後医学がどのような方向にいくかを示唆している。
第一期は唯物医学といい、肉体だけを対象にして行う医学だ。
第二期になると心身医学となり、心と体の相関を視野にいれたもので現在はこれに当たる。
第三期は非局在医学になるといっている。
普通の病院は臓器別に診療科が分かれているが、非局在医学では、肉体のどこかに病気の原因が局在化しているとは考えないので、最終的には医者に行かなくても治療ができる。
画像診断の遠隔治療は現在でもあるが、それどころの話ではない。患者と医者が地球の裏側くらい離れていても治療ができる。医療のありかたも今後大きく変わっていくはずだ。
これは、人間という存在をどのように捉えるかという話にもつながる。肉体という塊のなかに収まっているのが人間ではない。肉体から心は大きく離れているし、無限大に広がっている。そういう人間の捉え方が今後出てくるわけで、そうなってくると医療の有り様が変わってくるはずだ。
2012年に棚次正和先生と村上和雄先生は、協力されて祈りと遺伝子の研究を始められた。祈りそのものではなく、護摩行に関する実験である。真言僧侶と一般信者を対象に、護摩行の前後に採血をし、DNAマイクロアレイによる遺伝子発現解析と、メタボローム解析により血中の代謝産物を調べたのである。
それと同時に、共感性プロセス尺度というのを用いたアンケート調査を行われた。その結果、僧侶型遺伝子があるということが分かった。それはインターフェロン関連遺伝子という自然の免疫を活性化する遺伝子であった。
また、遺伝子以外にも僧侶型代謝産物(分岐鎮アミノ酸、マイオカインなど)というのも見つかっている。そして、それらの因子と心理的な共感性の関連の度合いを調べると、僧侶の方が共感性の度合いが強い。
共感性というのが、仏教でいう慈悲の心と繋がっているだろうと以前から推定されていたが、これらの間に相関関係があることが分かったのだ!
以上、先生方のお話から「祈りは何をもたらすのか」という問いに対し、祈りには「現実的な効力がある」ということをご理解頂けたことであろう。もっぱら宗教者のものだと思われている祈りを万人に開放し、我々一人一人が自然本性として祈っているということをシッカリと腹から理解をしなければならない。
イキイキと生きることが祈りなのだから、イキイキと生きている人は自然と祈っているのである。そして、生きることと祈ることの間に深いつながりがあることに早く気がつくべきである。
みなさん、とにかくイキイキと生きて祈りましょう!
参照1:智山教化センター第33回 愛宕薬師フォーラム
講師:京都府立医科大学名誉教授 棚次正和 先生の「手を合わせると-人はなぜ祈り、祈りは何をもたらすのか」
参照2:産経新聞 正論 筑波大学名誉教授・村上和雄 祈りとは「生命の宣言」である