1945年8月の日本の敗戦により、8年間に及ぶ日中戦争は終わりを告げた。しかし、中国ではまたすぐに中国国民党と中国共産党による内戦が再開された。
当時、空軍を保有していなかった中国共産党の八路軍は、なんとかして空軍を持つことを熱望していた。
そこで徹底したリアリストである政治家毛沢東は、早急に空軍を創るため旧大日本帝国陸軍航空隊の残留部隊の軍人と飛行機を利用して中国共産党の空軍を創ることを決めたのである。
このように中国共産党にとって都合のよい時に、大日本帝国陸軍をうまく利用するノウハウは、ずっと一貫する政治家毛沢東の得意技の一つであった。
1945年8月、中国共産党中央委員会は空軍創設のため東北部に航空学校を設立することを決定し、同年8月~9月にかけて、ソ連や中華民国空軍で航空技術を学んだ者、中国共産党中央党校、中央自然科学院、俄文学校などから引き抜いた精鋭30名余りを東北部に派遣した。
そして1946年3月に設立されたのが、東北民主連軍航空学校であった!
即ち、東北民主連軍航空学校とは、1946年3月1日に設立された国共内戦期の八路軍の航空学校。第二次世界大戦終結後、大日本帝国陸軍の関東軍第2航空軍独立第101教育飛行団第4練成飛行隊長林弥一郎少佐を始めとする、隊員300名余りが教官となって八路軍のパイロットを育成したのである。
この学校は、旧大日本帝国陸軍の日本人教官による指導のもと、後に中国人民解放軍空軍の屋台骨を支えるパイロット126名と飛行整備士322名を始めとする560名の航空技術幹部を輩出することとなった。
この東北民主連軍航空学校での練習機には、大日本帝国陸軍の一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」、九九式高等練習機や大日本帝国海軍の零戦三二型などが使用された。
それが、今を時めく中国人民解放軍空軍の礎となったのだ!
東北民主連軍航空学設立の経緯は、1945年10月、旧大日本帝国陸軍の林弥一郎少佐が瀋陽の東北人民自治軍総部で林彪、彭真、伍修権から八路軍空軍設立を要求され、隊員の生活保障を条件として空軍設立に協力することを受け入れたことにある。
1946年1月1日に八路軍の航空総隊が設立され、2月3日の通化事件では、林少佐や中華民国政府に協力しようとした飛行隊員は逮捕され、航空技術を持たないものは炭鉱送りとされた。2月5日、常乾坤に引率された航空幹部10名が通化に到着。3月1日、通化中学敷地内に東北民主連軍航空学校として正式に開校した。
通化事件(つうかじけん)とは、1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の叛乱蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊による多数の日本人らに対する逮捕とそれに伴う虐待や虐殺事件。日本人犠牲者数について諸説あるが、少ない説で戦闘時の死者も入れて約800人、多い説では約3000人の死者が出たとされ、その中には蜂起に参加さえしていなかった一般市民が多数いたとみられている。中国では通化二・三事件などと呼ばれている。
参照1:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』国共内戦、東北民主連軍航空学校、通化事件、零式艦上戦闘機、J-10 (航空機)