小学1年生の時から、心の片隅にチョコット引っ掛かったまま、時折思い出してはまたは忘れることにしてきた一つの疑問があった。
それは、小学校1年生の時に教わった漢字「左右」の筆順のことである。
先生は「えーか、左はまず横の一を書いて次にカタカナのノの字を書く、そして中にカタカナのエや!」と仰り、「次に右やが、こっちはまず先にカタカナのノの字を書いて、次に横の一を書くのや。間違えんときや!そして中に口を書くんやで。」と告げられたのであった。
「そんなアホなことなんでせんとアカンの!」と当時ピカピカの1年生は大きなショック受けながら心の中で叫んだのである。
そして信じられないという思いからサット手を挙げ「先生!何で左と右で書き方の順番がそないに違うん。」とお尋ねしたのだ。
先生のお答えは「あのなーこれは昔からそんなふうに決められている。決まりごとやね。」という一言であった。
しかし、それではとても納得は出来なかったのだ。
実は先の幼稚園時代の折は今で言う「月光仮面のマンガオタク」であったことから、両親はもちろん祖母や伯母を含め身近な親しい人には誰彼となく「月光仮面の本読んでー。」とひたすらせがむ幼稚園児だったのだ。
その甲斐?があって、マンガの中のセリフはほぼ読めるようになっていた。
そうなんです!
左右の漢字は、小学校で教えてもらう前から既に読めていたのである。
そんなピカピカの1年生にとって、書いた後での読む人にとっては、左右の筆順の違いなんぞはどちらでもエエのやとしか思えなかったのだ。
そして、その時ハッキリと「どっちでもエエことに悩むのはもう止めや。」と心のなかでスパッリと決め、以後筆順は無視することにしたのである。
そして初志貫徹のまま40年の月日は流れ、四十代も半ばを過ぎた頃、あの甲骨文字を含む漢字学の大家、東洋哲学の巨人である白川静(しらかわしずか)先生を知ったことから、思いもよらぬ展開が待っていたのであった。
なんと左右の漢字の筆順の違いが、どういう理由であったのかというその謎がついに解けたのである!
まさに氷解するとはこのことであった!
古代中国の甲骨文字では、左の元の字はまずアルファベットのUの字を右に傾けて上から下に書き、後にその真ん中を貫いてカタカナのノが入れられていた。エはまだ存在しない。
そして、右の元の字はまずアルファベットのUの字を左に傾けて上から下に書き、後その真ん中を貫いて横に一がやや右下がりに入れられていたのである。口はまだ存在しない。
まるで、自分の左右の手を目の前でハの字にしたカタチそのものなのである。
そう、ピカピカの1年生が40年間無視続けて来た、まさに「昔からの決まりごと」そのものが目の前に現れて来たのであった。そのとおりの筆順であることが、ついに分かった瞬間である。
白川静先生は、およそ3400年前に書かれた漢字の原点である古代中国の甲骨文字の解明をなさる中、漢字にまつわる偉大な発見をいくつもなされて来たのだ。
実は、この古代中国の甲骨文字が研究されるようになったのは清朝末期(1899年)に、中国で遺物の骨に文字が刻まれているのが発見されてからのことである。
つまりは、たった120年ばかり少し前のことなのである!
この甲骨文字が発見されるまで、中国における最古の漢字辞典といえば、「説文解字」(せつもんかいじ)、略して「説文」(せつもん)。それは、後漢の時代西暦100年に許慎(きょしん)によってに書かれたものであった。
しかし、西暦100年の「説文解字」にとっては、その1500年前に存在していた甲骨文字の存在は、もはや歴史の彼方へと消え去って久しいものであった。つまり、漢字の原点である甲骨文字の情報を、許慎は知る由もなかったのである。
甲骨文字の存在すら知り得なかった許慎は、「説文解字」で「告」という字の注解に考えあぐね、「牛が人を後ろからつついている様」というような話を記載している。
一方、甲骨文字の解明を進めた白川静先生は、「告」という字の下の口は元の甲骨文字では、「日」に似た文字でそれは「サイ」と読むべきことを発見された。
「サイ」とは祈りの言葉を印したモノを収める、箱のような入れ物のことを示す。
さらに「告」の上は牛ではなく、祝詞を神様に捧げる時に使う幣、白木の棒などで作った祓串(はらえぐし)のようなモノを示すと発見された。
つまり、白川静先生は、「告」と言う字は「人が祈りを込めた言葉を入れたイレモノをかざして神様に御願いをする様」であるという大発見をされたのである。
従来、単に人の「口」であると思われていた「口」を、「サイ」に読み替えるケースを導入することで、多くの漢字が本来の意味を明確に示すことが分かって来たのだ。
参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』説文解字