1914年から1919年にかけて行われた第一次世界大戦は、主戦場がヨーロッパであったこともり、日本は参戦はしたが大きく関わることはなく、漁夫の利を得た大戦であった。そのため、日本人からすると実感としては印象の薄いことは否めない世界大戦であったかも知れない。しかし、この大戦の結果は凄まじい内容であった。なんと世界に君臨した大きな帝国が、4か国も崩壊し消えてしまったのである!
第一次世界大戦の結果、各地で革命が勃発し崩壊した4つの帝国とは次のとおりである。
これらの4つの帝国の崩壊は、世界のバランス・オブ・パワーに大きな影響を与え、その後の新たな国際秩序が形成される契機となったのである。
余談ではあるが当時を想像するに、時の大正天皇や皇太子であられた昭和天皇におかれては、特にドイツ帝国とロシア帝国、これら両帝国の革命による崩壊については、相当なショックがおありだったに違いなかろう!
日本においても第一次世界大戦後には、民本主義に基づいた一般民衆の生活の向上、また言論や出版及び集会の自由の拡大、さらに一般民衆の政治参加を要求する、いわゆる大正デモクラシーと呼ばれる時代に突入するのである。
閑話休題、崩壊した4つの帝国の中の1つであるオーストリア=ハンガリー帝国。これこそが、あのヒトラーやカフカ、フロイトやドラッカーたちが生を受けた帝国であった!
ヒトラーは、1889年にドイツ系オーストリア人としてオーストリア=ハンガリー帝国のオーバーエスターライヒ州のブラウナウにて生まれた。
ヒトラーが正式にドイツ国籍を取得したのは、1932年のことであったそうである。ドイツ大統領選挙に出馬のためであった。当時は、ドイツ系オーストリア人はほぼドイツ人みたいなものだという感覚もあったのであろう。1938年にドイツの首相となったヒトラーはオーストリアを併合するが、ヒトラーからすると至極当然のことと考えていたような気がしてくる。
『変身』で有名な作家カフカは、1883年にオーストリア=ハンガリー帝国のプラハ(現在ではチェコの首都)でユダヤ人の家庭に生まれている。
心理学、精神医学、心理療法、人文科学全体には大きな影響を及ぼし続けているフロイトは、1856年にオーストリア=ハンガリー帝国のモラヴィアのフライベルク(現在ではチェコの都市)でユダヤ人の毛織物商人の子として生まれた。
「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者として知られるドラッカー は、1909年にオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれている。
あらためてオーストリア=ハンガリー帝国とは、かつて中央ヨーロッパに存在した多民族国家である。ハプスブルク帝国の一つで、ハプスブルク家領の最後の形態である。
ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主が統治した連邦国家であり、国家連合に近い。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に第一次世界大戦に敗北して解体するまで存続した。
その領土には、オーストリア・ハンガリー・ボヘミア・モラヴィア・シュレージエン・ガリツィア・スロバキア・トランシルバニア・バナト・クロアチア・カルニオラ・キュステンラント・スラヴォニア・ブコヴィナ・ボスニア・ヘルツェゴビナ・イストリア・ダルマチアなど、多くの地域を抱える大国だった。
「オーストリア=ハンガリー帝国」以外の慣用的な呼び名としてはオーストリア=ハンガリー二重帝国、オーストリア=ハンガリー君主国などともいう。
1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が起き、その混乱に乗じてオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合した。ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またムスリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリアへの帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合したオーストリアへの反感があがるのも当然のことだった。その後、2度のバルカン戦争を経て、バルカン半島は「汎ゲルマン主義」と「大セルビア主義」、それに加えて「汎スラヴ主義」が角逐し、個々の民族間でも対立が激化して「ヨーロッパの火薬庫」の様相を深めていった。
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は妻ゾフィーとともにボスニアの州都サラエボを軍の閲兵のために訪れていた。オープンカーでパレードしていたところに、ボスニア出身のセルビア人で民族主義者のテロリスト、プリンチプが、この皇位継承者夫妻を銃撃した。2人は奇しくも結婚記念日のこの日に暗殺された。これを「サラエボ事件」といい、ヨーロッパ中に戦乱を告げる狼煙となった。オーストリア軍部はこれを口実にセルビアを討つことを叫んだ。国民は最初は大公暗殺に関しては冷めていたが、貴賤結婚だった大公夫妻の葬儀は簡素に行われ、これが市民の同情を誘い、「セルビア討つべし」の声が高まったのだった。
後年、英国首相のチャーチルは、「前身がオーストリア帝国であるオーストリア=ハンガリー帝国。このハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の歴史を経験しなくともすんだであろう。」と語っている。
そのチャーチルは1965年に亡くなるが、その後も1991年から1995年にかけて、クロアチアのユーゴスラビアからの分離独立、および国内でのクロアチア政府とセルビア系住民による自治政府の対立をめぐるクロアチア紛争が起きている。
さらには、1992年から1995年まで続いたユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナの悲惨な内戦も生じた。別名、ボスニア紛争やボスニア戦争とも呼ばれるものだ。
この紛争は、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を巡って民族間で勃発し、3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた。結果として、死者は20万人、難民・避難民は200万人に上ると言われ、戦後の欧州で最悪の紛争となった。
この内戦は、ボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の3つの民族勢力が対立し、最終的には「民族浄化」合戦が繰り広げられた。この紛争は、多くの人々の命を奪い、国内難民の大量発生、そして民族間の対立をもたらしたのだった。
チャーチルではないけれど、何だかオーストリア=ハンガリー帝国の時代を懐かしんだ人々が、きっとホンマに大勢いたような気がして来る。