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忘れたらアカン大日本帝国憲法における「天皇機関説」のups and downsの悔しさを!

「天皇機関説」は、1900年代から1935年頃までの30年余りにわたって、当時の日本の憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である。憲法学者の宮沢俊義によれば、「天皇機関説」は、次のようにまとめられる。
国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だということになる。
これがいわゆる「天皇機関説」または単に機関説である。

話は突然飛躍するが、現在の国際情勢をよくよく鑑みると、今足元では法治国家としての在り方について、疑念を持たれている中国においても、将来的には【共産党機関説】の如きものが中国人民の中で議論される日が来るのかも知れない!

1954年に最初の中華人民共和国憲法が制定されて以来、その後1975年、1978年、1982年(現行憲法)と4つもの新憲法が登場した。さらには1988年、1993年、1999年、2004年に憲法改正も行われている。このように、中国の憲法は頻繁に改正されていることが特徴で、1946年の公布以来今日までの77年間、一度も改正の無い日本国憲法とは全くおもむきが異なるのである。

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なお、1978年の新憲法において、初めて中国共産党に直接言及する文言は憲法の前文のみとし他は削除されるという、今の憲法スタイルが確立された。さすがアノ韜光養晦(とうこうようかい)の鄧小平さんが、主導された新憲法であった!

閑話休題「天皇機関説」の話に戻ると、大日本帝国憲法の解釈は、発布された当初は東京帝国大学教授・穂積八束らによる『天皇主権説』が支配的で、藩閥政治家による専制的な支配構造(いわゆる超然内閣)を理論の面から支えた(『天皇主権説』とは統治権の意味での主権を天皇が有すると説く学説である)。また、この天皇主権は究極のところ天皇の祖先である「皇祖皇宗」に主権があることを意味する「神勅主権」説とも捉えられた。
これに対し、東京帝大教授の一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する「天皇機関説」を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。もっとも、国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、日清戦争後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。

1904年の日露戦争後、「天皇機関説」は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えたのだ!

美濃部の「天皇機関説」はおおよそ次のような理論構成をとる。
1:国家は、一つの団体で法律上の人格を持つ。
2:統治権は、法人たる国家に属する権利である。
3:国家は機関によって行動し、日本の場合、その最高機関は天皇である。
4:統治権を行う最高決定権たる主権は、天皇に属する。
5:最高機関の組織の異同によって政体の区別が生れる。

1911年の辛亥革命直後には、『天皇主権説』の穂積の弟子である東京帝大の上杉慎吉と美濃部との間で論争が起こる。共に天皇の王道的統治を説くものの、上杉は天皇と国家を同一視し、「天皇は、天皇自身のために統治する」「国務大臣の輔弼なしで、統治権を勝手に行使できる」とし、美濃部は「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためするのではない」と「天皇機関説」を説いた。

この論争の後、京都帝国大学教授の佐々木惣一もほぼ美濃部と同様の説を唱え、美濃部の「天皇機関説」は学界の通説となった!

その結果、「天皇機関説」は民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、1920年代から1930年代前半にかけては、「天皇機関説」が国家公認の憲法学説となった!

さらには、この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、「天皇機関説」を当然のものとして受け入れていたのである!

ところが突然1935年(昭和10年)には、政党間の政争を絡めて、貴族院において「天皇機関説」が公然と排撃され、主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部が弁明に立った。結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。

当時の岡田内閣は、同年8月3日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり」(天皇が統治権執行機関だという思想は、国体の間違った捉え方だ)とし、同年10月15日にはより進めて「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする【国体明徴】声明を発表して、「天皇機関説」を公式に排除、その教授も禁じられた。これにより明治憲法下における立憲主義の統治理念が公然と否定されることになったのである!

なんと1900年代から1935年頃までの30年余りにわたり、当時の日本の憲法学の通説とされた「天皇機関説」が、ここに突如として抹殺されたのである!

「天皇機関説」と『天皇主権説』との対立点とは?
<主権の所在>

「天皇機関説」:統治権は法人としての国家に属し、天皇はそのような国家の最高機関即ち主権者として、国家の最高意思決定権を行使する。

『天皇主権説』:天皇はすなわち国家であり、統治権はそのような天皇に属する。これに対して美濃部達吉は統治権が天皇個人に属するとするならば、国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとした。

国務大臣の輔弼

天皇機関説」:天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠である(美濃部達吉『憲法撮要』)。

『天皇主権説』:天皇大権の行使には国務大臣の輔弼を要件とするものではない(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。

<国務大臣の責任>

「天皇機関説」:慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない(美濃部達吉『憲法撮要』

『天皇主権説』:国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うのであり(大権政治)、天皇は議会のかかわりなく自由に国務大臣を任免できる(穂積八束『憲法提要』)。議会の意思が介入することがあれば天皇の任命大権を危うくする(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。

大日本帝国において「天皇機関説」が抹殺された1935年には、清朝最後の皇帝であった溥儀が、満州国皇帝と成って初来日し日本中で国民的歓迎を受けた。

一方同じ1935年、米国では労働史上でもっとも進歩的だと言われるワグナー法が成立し、続いて社会保障法が制定された。中国では共産党の中で、毛沢東の指導権が確立した。また、ドイツでは再軍備宣言が行われ、続けてニュルンベルク法が公布されユダヤ人の市民権が剥奪された。ペルシャが国名を正式にイランとした。エチオピアではイタリア進攻による第2次エチオピア戦争が起きた。そして、あの忠犬ハチ公が20歳で逝った!

なお、翌年の1936年には2・26事件であった。

その後に続くのは、1941年12月の真珠湾攻撃による日米開戦!

そして、1945年8月のヒロシマ・ナガサキへの原爆と敗戦!

挙句の果てに、明治のスタートから78年目に大日本帝国は滅亡した!

天皇機関説 – Wikipedia

天皇主権 – Wikipedia

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