モノゴトには必ず光と陰の両面があるが、この度は敢て光の面だけを見つめてみた。陰の面に関しては、多くの方が書いておられるので是非そちらをご覧願いたい!
1910年に日本は当時の韓国を併合した。日本の同盟国の英国や米国、フランスやドイツ、中華民国などの世界の主要国はこれを認めた。現在のロシアによるウクライナ侵攻とは、まったく異なるものであったのだ!
韓国併合の後、日本は富国強兵政策のさらなる推進も踏まえ多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。
これまでには朝鮮半島にほとんど存在しなかった鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場などのインフラ整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島を近代化していったのである。
鉄道路線の路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され地方経済を活性化させた。
三菱製鉄(兼二浦製鉄所)や日本製鐵(清津製鉄所)による製鉄所の建設、日本窒素肥料(現:チッソ)の進出による水力発電所建設などが行われ、朝鮮総督府からの補助金による1527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林や砂防堰堤建設などの水利事業も行われた。これは、それまでの欧米諸国による『収奪的植民地政策』にはまったく見られないものであった。
ちなみに、現在花火のようにミサイルを撃ちまくる迷惑な北朝鮮であるが、1944年に日本が完成させた巨大な重力式コンクリートダムである水豊ダムを現在も利用、北朝鮮と中国に電力を供給している。また、朝鮮総督府鉄道は日本が1899年から1945年まで運営していた鉄道網であるが、現在も北朝鮮の鉄道の基盤となっている。
そのような経緯があり経済成長率の面では、1920年から1930年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしており、朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4%と高い成長率を記録していた結果が出ている。
また、李朝末期時点では大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城(ソウル)は、区画整理が行われ路面電車(ソウル市電)が走る都市となった。衛生面では、生活面における衛生指導や集団予防接種が行われ、当時朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、人口は併合時(1910年)の調査では約1313万人、1944年の調査では2512万人となりほぼ倍増している。参考までに、1910年の日本の人口は約5000万人、1944年が7400万人で倍増には至っていない。
李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益をもたらすようになった。
大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の利益を得ていた。その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉喆さんである。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった。
朝鮮全土の水田は、併合前の84万町歩から1920年は155万町歩になり、1942年には177万町歩となる。それと共に、面積あたりの収穫量も1910年の1反あたり0.796石から1937年には1.635石へと倍増した。面積も倍増、収穫量も倍増、およそ30年間で併合前の4倍の米の収穫を成し遂げたことになる。
なお、1910年に日本が韓国を併合したことによって、日本はその時点から朝鮮時代に存在した両班、中人、常人、賤民などの身分制度を廃止し、全ての朝鮮人を平等な国民とした。
すなわち、身分解放によって、賤民や常人などの低い身分に属していた朝鮮人は、両班などの高い身分に属していた朝鮮人と同じ権利や義務を持つようになったのだ。
1910年の人口約1313万人のうち、約300万人が賤民や常人などの低い身分に属していたとも言われているようである。
【韓国併合条約とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や条約までの流れなど | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト (nihonsi-jiten.com)