大河ドラマ「どうする家康」も昨日から始まりましたが、御存知のように「江戸」はその徳川家康が、地方の粗末な城下町をあらためてデザインし直し、大改造して生まれた都市です!
江戸時代中期、江戸の人口は、武士が約70万人、町人が約50万人、僧侶など宗教者も含めると軽く100万人を超しており、世界的にも最大規模の都市でありました。
その頃のロンドンの人口が約85万人、パリが約55万人、そして中国当時は清朝の北京と広州が共に100万人程度と言われています。
同じ頃の国内の大都市である大坂や京都の人口が、概ね30万から40万人(元禄期)ですから、江戸を語る上でこの人口の巨大さは重要なポイントです。
巨大な人口の維持には、誠に膨大な物資を必要とします!
江戸は、「人」と「物」がドンドンと集まることで次第に巨大な「消費都市」になったのです。さらにその消費を支えるために「生産都市」としての性格も強めていきます。こうしたことが江戸の独特な気質や特色を生み、「化政文化」などの江戸文化を発展させました。
一方、多くの人々が集まって住めば、その「精神面を支える装置」もまた必要になります。それが宗教や文化です。特に宗教には「死にまつわる不安を和らげ、来世の保証をしてほしい(来世安穏)」「生きている間の願いを叶えてほしい(現世利益)」という期待が寄せられます。江戸幕府の宗教政策から、それらは主に仏教に求められました。
そうしたさまざまな願いに応じるため、江戸には新たに多数の寺院が建立されました。幕府は、江戸を含め全国の寺院統制を寺社奉行や各宗の触頭(ふれがしら)を中心に行っていきました。
ですから、江戸には先のような庶民の信仰を引き受ける寺院だけでなく、「寺院行政の為のみに関わるような寺院」も設けられました。このことは、多くの寺院が存在する京都とは異なる江戸の寺院の特色といえます!
触頭(ふれがしら)とは、江戸時代に幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行いました。
室町幕府の時代に僧録が設置され、諸国においても大名が類似の組織をおいて支配下の寺院の統制を行ったのが由来であります。1635年(寛永13年)に江戸幕府が寺社奉行を設置すると、各宗派は江戸もしくはその周辺に触頭(ふれがしら)寺院を設置した。「浄土宗」では増上寺、「浄土真宗」では浅草本願寺・築地本願寺、「曹洞宗」では関三刹(栃木県の大中寺、千葉県の総寧寺、埼玉県の龍穏寺)が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った。触頭には、全国の寺院や僧侶から出される各種の請願にともなう、いわば「寺務取扱手数料」としての礼録・冥加料等(一件ごとの額は差程ではないでしょうが)の収入がもたらされた。
余談ですが、このような江戸幕府と仏教界とのWINーWIN関係も踏まえ、明治維新の際に明治新政府は神道の国教化政策に舵を切り、1868年(明治元年3月)神社から仏教的な要素を排除しようと神仏分離政策である「神仏分離令」を出します。
「江戸の寺院の様子とは?」
仏教の信仰は、大きく二つに分けられると思います。葬儀・法事という死に関わる「滅罪」と、現世の願いを叶える「祈祷」です。
江戸では(江戸に限りませんが)、僧侶は人々の願いに応じてさまざまな宗教行為をしています。しかし当時の人々は「滅罪」と「祈祷」とは一つの寺院ではなく、別々の寺院に依頼することがごく普通でした。
例えば将軍家の菩提寺は増上寺(浄土宗)や寛永寺(天台宗)ですが、増上寺では「滅罪」の行為は行っても決して「祈祷」はしません!
将軍家の諸願を叶える祈祷行為は、「護持院(知足院を改称)」が中心になっていました!
庶民も宗門改め制度により特定の菩提寺をもっていましたが、同時に祈祷檀那として祈祷だけを依頼する寺院をもつことが一般的でした。
「江戸町人の宗教意識の特色とは?」
江戸町人が抱いていた宗教意識の特色をまとめると次のようなことがいえます。
①幕府は、禁止しているキリスト教や不受布施派(日蓮宗の中の一派)に属さないように、宗門改め制度によって日本人全てが何れかの宗派寺院の檀徒になることを強制した。宗門改めは家単位で行うため、一個人が特定の宗派・寺院を選択する余地はほとんどなかった。このため宗教行為は滅罪行為を中心に慣習化し、菩提寺との関係は形骸化していった。
②近世、江戸時代の人々は、中世に比べて、現世を謳歌する傾向が強まった。信仰面では、菩提寺を介する「滅罪」行為は習俗的な慣行として一層定着はしたが、菩提寺を介さない「現世利益」を追求する信仰が非常に高揚した。特に江戸などの大都市の町人にその傾向が強い。
③特定の寺院や霊場を参詣する信仰の旅が大いに盛行した(成田詣・大山詣、西国や坂東などの観音札所巡りなど)。
また、一方では全国の著名な寺院が、霊験あらたかな本尊や宝物類を江戸に運び、回向院や護国寺などの境内で参拝させる出開帳が頻繁に行われた。今で言えば大フェスティバルの開催である。出開帳には出店が立ち、催し物や興行があるなど、信仰と娯楽がセットになっており、江戸町人の大人気を博した。
例えば、成田山新勝寺は1703年(元禄16年)の夏に初めて江戸深川の永代寺(えいたいじ)で出開帳を開催し人気を高めた。さらに時を同じくして、歌舞伎の市川團十郎と九蔵の親子が、祈願により子を授かった実体験を元にした演目「成田山分身不動」を上演して大当たり。こうして、「成田詣」は江戸庶民から不動の人気を得ることとなった。
「江戸寺院の経済基盤とは?」
江戸寺院の経済基盤は、大きく二つに分かれる。一つは「土地経済」、もう一つは「布施経済」。これは土地収入・布施収入ともいえる。
「土地経済」とは、いわゆる田畑や借地など土地から得る収入です。将軍や大名から寺院に寄進された「朱印地」や「黒印地」、あるいは「除地」とされ田畑は、年貢・公租類は免除され、それは全てが寺院の収入になった。また、年貢のかかる田畑を農民に貸して得る小作料や、門前町地を貸して得られる借地代も重要であった。
一方、「布施経済」とは、檀家さんの葬儀・法事などの布施、そして祈祷料のことである。江戸の寺院は、布施に頼る寺院が多かったと思われるが、土地・布施のどちらか一方からというのではなく、複合的になっている寺院も少なくなかったはずである。
参照1:総本山智積院 愛宕薬師フォーラム 愛宕 真福寺 江戸の寺院を知る 講師:大正大学文学部教授 坂本 正仁 先生
参照2:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)触頭
参照3:まっぷるトラベルガイド編集部 成田山新勝寺の人気の秘密